ガーンジー島の読書会の秘密


まず私にはやりたいことがあるという話である。冒頭の1946年「本を書いて稼いだお金でロンドンの皆に住宅を贈ったらどう」「愛する人に花を贈ることで花屋の仕事を作っている」などの冗談めかしたやりとりがなされるが、そう、ジュリエット(リリー・ジェームズ)は才能と仕事と恋人を持ち、人の役にも立てるし何だって出来る、どこへだって行ける、でもパーティで見上げた風船のように行きづまっている。やりたいことに出会っていないから。

そして血の繋がらない家族の話である。映画の終わり、ジュリエットから贈られた原稿を前にドーシー(ミキール・ハースマン)が出かける準備をする場面で低くめぐるカメラがとてもよかった、あれは家族を撮っていた。更に一人の女が、時間も場所も一度も交わることがないもう一人の女の生き方に目覚めさせられる話である。どうやってそれを知るかというと、せっせと掘り起こしていくのである(「エリザベスの話をしてくれてありがとう」)。

船の脇でプロポーズされるのに始まり船の脇でプロポーズするのに終わる恋愛ものでもあるけれど、私は驚くほどセクシーに撮られているドーシー(大抵は肉体労働中か今まさに終わったところかで汗ばみ胸をはだけている)よりもマーク(グレン・パウエル)との顛末に感じ入ってしまった。二人の作中最後のやりとりは、私が恋愛ものを好きなのはそこに人間が出るから、という見本のような場面で涙がこぼれた。

ジュリエットがドーシーからの最初の手紙を読むのに座る、「新居」には全くそぐわないであろう椅子が目を惹いた。椅子とは人が腰を落ち着ける場所である。初めて読書会に参加した彼女は座ることを許されない。後に皆を帰してジュリエットに向かい合うアメリア(ペネロープ・ウィルトン)も立ったまま、その脇の、彼女の体の形になった、一人時を過ごしてきたであろう椅子の姿の鮮烈さよ。終盤気付けば、長年の付き合いのシドニーマシュー・グード)の部屋の長椅子だって座り心地はよさそうなのだった。


日比谷シャンテのチャヤナチュラル&ワイルドテーブルにて、映画のコラボメニュー「ポテトピールパイとマグロステーキの玄米プレート」。映画を見る前だったのでパイの意味が分からなかったけれど、これは「オリジナル」じゃない。だって美味しかったから…(笑)

グッド・ヴァイブレーションズ


冒頭、テリー・フーリー(リチャード・ドーマー)がベルファストの「爆弾横丁」に店を開くにあたって持参したレコードで殺し合う二派を「買収」する場面を何とも面白く思ったものだけど、ここに彼のずっと変わらぬ芯があるのだった。素晴らしい音楽は争いを駆逐する、だから皆が聞くべきだ。その精神でもって突っ走る。父親いわく「わしは12回落選したが友人もできたし選挙の度に得票数が増えた、勝利は他人が決めるものじゃない」。金が心の自由を奪うという信条含め、この二人、何と似た者同士であろう。

本作からは、他の映画にはあまり無い、今が瞬く間に過去になっていく感覚を受ける。契機と呼べる様々な場面が次から次へと昔のことになっていく。とはいえそれは今を吸収しての新たな今の連続である。テリーがルーディの叫びを聞いていわば開眼した晩のベッドの場面から彼とルース(ジョディ・ウィッテカー)の間に距離ができるのは、二人が同じものを吸収しなかったからかもしれない。だから道が分かれていくのだ。

アンダートーンズの「Teenage Kicks」をひっさげてロンドンに乗り込んだテリーは、「ベルファストのバンドの曲なのに銃も戦車も出てこないなんて、こいつらの頭はお花畑か」と軽くあしらわれる。世界の真ん中にいる奴らに隅っこの、抑圧されている人間の気持ちは分からない。「当時のベルファストで活動したバンド、変な服装に騙されちゃいけない、彼らは本物だ、彼はシンリジィに入った、彼はウイングスに入った、そしてマイアミ…」ああいうところに生きる人々が何を求めているかなんて。

映画の始め、自分で掛けたシャングリラスの「Past, Present and Future」を背にルースに名前を教えてもらったテリーは「君が最初の招待客だ」と言う。奇妙な文句だと思っていたら、映画の終わり、彼はアルスターホールに「史上最多の招待客」を入れてしまうのだった。楽屋裏での彼女への「ごめん」はそのことへの謝罪に違いない。君以外にこんなに招待しちゃう男なんだ、ぼくは、という。私だってあんなに「客」の多いパートナーは正直嫌だ、「私」か「私達」の客でないならね。

この映画、昨年のイベント「アイルランド映画が描く『真摯な痛み』」に行かれず逃したのを一般上映にてようやく見たんだけども、岡さんの企画絡みで言えば…尤も全てがこの映画の精神に貫かれていると言えるけれど…グッド・ヴァイブレーションズのその後が「そして」と「しかし」で語られるところで、アンナ・ボーデン&ライアン・フレック監督「シュガー」の最後の「元」「元」「元」を思い出した。だめだと思えば場所を変えたりやめたりまた始めたりする、私はそういうのが好きだ。

夏休みの記録その4


帰省の折、諸事情あって二度も大名古屋ビルヂングで食事することに。一度目は味仙、メニューは限られているけれど変わらず美味しかった。二度目はキッチン大宮にて、私はオムライス、向かいの母はビーフシチュー、同居人と父はハンバーグ。


夏休み最後の日に同居人が作ってくれた、夏飯大集合って感じの夕食。冷汁におそば、ナスと枝豆とネギのかき揚げ、スイカの皮と厚揚げの煮物、どれも美味。ベランダの内藤とうがらしもすっかり赤くなってきた。

ディリリとパリの時間旅行


映画は「役割」を果たしているのを「見られ」ている少女の姿に始まる。「僕らの言葉が話せる?」「あなたよりうんと上手にね」と答える彼女、ディリリを主人公としたこの映画はまず、世界に中心などないと言っている。フランスにとって流刑の地であるニューカレドニアは彼女には愛する人のいる土地、船上では「(フランスの)伯爵夫人から彼女の『部族』の風習を習った」。

母語を持てずアイデンティティを喪失する子どもが日本でも増えている中、二つの言語を我が物とし「どちらの人にだってなりたい」と望めるディリリは恵まれているとも言えるが、勿論いいのだ、それが当然の権利なのだ。彼女の最後のセリフ、すなわちこの映画の子ども達へのメッセージは「まだまだこれから」だが、歌や踊りを学びながら法学部に行くために貯金をし「不正は許せない、正義を実行したい」と言う青年オレルだとて一体何になることだろう。

ベル・エポックのパリを舞台に次から次へと登場する目も眩むほどの有名人たちはある種の軽さでもって記号のように描かれており、ディリリの「私も何かを作ってみたいけど、まずは女の子たちを助けるのが先」にも表れているように、人命の前には単にノートに書かれた名前の切れ端ともなる。ロダンに会った彼女が「これが一番好き」と言う彫刻がカミーユの作品だという一幕がいい。ロートレック目線のアクションも(笑)

ミッシェル・オスロのアニメーションならではの表現が、世界におけるレイヤーとでもいう感覚に繋がっている。少女が次々に誘拐されているのにも関わらず町を楽しむパリの人々(…の中に先の有名人らも入っているように見える)と、事件を解決せんとオレルの配達車で飛び回る二人。エマ・カルヴェの歌声にようやく事件を意識し「世界が完璧に戻った」と感動する婦人の姿には、やるせなさと同時に「芸術」の役割も思う。

地下にその領域を広げ、汚水には飛び込めまいと下水の脇で女を飼育する悪者たちに対し、ディリリと仲間はエッフェル塔、階段を上った、上った先のオレルの部屋、飛行船と空から打って出る。実際に被害に遭ってきた身としては、「(悪者が)鼻輪をしているからすぐ分かった」なんてそんなことありはしない、悪の目印などないのだと言いたくなるが、彼ら自身がそれを誇りにしているらしいことには現実味がないでもない、というか、これは100年前を舞台とした物語だけれども、いかにも昨今らしいとも言える。

夏休みの記録その3


済州島からソウルに移動して、明洞でも二泊。まずは金浦空港のロッテシネマにて「ライオン・キング」。ロッテモールの活気からしてとても楽しかった。注文したダブルポップコーンの片方、日本では見たことのないオニオンのが美味しかった。


武橋洞のプゴク(干し鱈のスープ)はとても美味しく、ジェネリックジェネリック的なものなら家でも作れそうだと材料を考えた(笑)広蔵市場では看板の緑豆チヂミを持ち帰り…と言ってもこれも美味しくすぐ食べてしまった。


うちの近所(新宿)にもお店が出来たけれどもカフェドパリ、今回は散策を兼ねて弘大店へ。向かいの立派な小学校を眺めながらマンゴーとチェリーのボンボンを食べる。ついでにもう一つ、遡ってロッテモールのアイスファクトリーで食べたばらのアイスも写真を一枚。大変な「はりぼて」だけど可愛い。


韓国で最後に口にしたのは金浦空港でのキンパとおでん。国際線ターミナルの出国フロアには食事するところがあまりなかったけれど、雨の飛行場を眺めながらつまむことができ楽しかった。でもって買ってきたお菓子の数々は、帰国後数日で無くなった(笑)さつまいものポッキーのようなのが美味しかった。

ピータールー マンチェスターの悲劇


冒頭に置かれたウェリントン公の補佐官ビング将軍と内務大臣の「軍人として育てられたので政治に関心はありません」「いいことだ、私もそうだ」とのやりとりで、(国の軍隊もおそらく義勇軍も)軍とはどのようなものかがまず語られる。トップは自身の愉しみにかまけ、政治に関心を持った元軍人は義勇軍の手で殺される。

この映画には奇妙な、というか他の数々の映画にはめったに無い手触りがある。表情や言動から過去や感情が逐一分かる登場人物に生々しさを感じない。容易に中が覗けない。実際に生きていた人々だからこそ、マイク・リーの真摯なやり方で描くとそうなるのだろう。映画の最後、新聞の見出し(事件の名称)について話し合いながら職場に戻る記者達の姿には、私達が何かを通じて何かを知る時、そこには誰かの手が介在しているのだということが描かれている。

誰かの言う「現実を見ろ」とは大抵強者が弱者を搾取するのは仕方ないのだからあきらめろという意味だが、見て認めるべき現実というものがあるとしたらそれは人は複雑で物事は掴みにくいということであり、マイク・リーはそれこそを描く作家だろう。この映画ではその特質が存分に発揮されている。一様でなかろうと全ての人々の権利は生まれながらのものであり、決して「懇願して」いただくものじゃないということも伝わってくる。

マンチェスター・オブザーバー紙のオフィスにて「人には三種類ある、知を愛する者、勝利を愛するもの、利得を愛する者」というプラトンの言葉を記事に加えようとの提案が「そんなことは関係ない」と却下される。かつて七日間のストをしたが殴られて終わり、という経験をしたネリー(マキシン・ピーク)は婦人集会に赴くも「何を言っているかわからない」と抵抗し座ろうとしない(…と書いたけど、教えていただいたのですがここで抵抗するのはクリスティン・ボトムリー演じる無名の役の女性だったそうです、その後の解釈が違ってくるので見直してみたい)。このように「伝えんとする」に対する「分からない」が執拗に描かれる。齟齬というのでもない、これもまた監督らしくて面白いと思った。

夏休みの記録その2


スターバックス済州島限定グッズやらメニューやらを、主に中文店にて色々購入。限定カードにジャム、チョコレート、タンブラー、マグネットなど。済州島産のお茶を使ったクリームフラペチーノは意外な味で、私にはちょっと合わなかった。にんじん玄武岩ケーキは岩をイメージしたスポンジが、考えたら当たり前だけどふわふわでびっくり(笑)


お馴染みグリークヨーグルトも新しい容器に惹かれて購入、翌日のおめざに。


アクアプラネット済州は「アジア最大規模」ながらのんびり感がよく、来ている子ども達も皆楽しそうだった。その後に行った「眺めのいい店」は肝心の窓ガラスが汚くてびっくりしたけど太刀魚料理は全て美味しく、刺身を一口食べたら小学生の頃の夏休みが蘇った、太刀魚の刺身は初めてだったのに。


「ソヨンの家」は映画「建築学概論」のために作られたセットを改築して作られたカフェ。バス停から歩くと突き当りに海が見えてくるという道のりがやっぱり楽しい。二階の窓辺の席は気持ちがよく、「ナプトゥギのマフィン」もオレンジが活きており美味しかった。