夏休みの記録その1


夏休みは済州島へ。行ったところ食べたもの全部は書けないけれど、主なのを。写真は宿泊したラマダプラザ済州の部屋からの朝の眺め。ちなみにホテル内のデリのネギとチーズのパンがとても美味しく、買って帰った。


到着してまず、済州島のルーツや神話について見ることが出来る三姓穴と近代の歴史を知ることが出来る済州4.3平和公園へ。前者は実質的な展示、後者には、韓国にはこうした政治と芸術が融合した展示が多いなと感じ入った。


食事の中で特に珍しく美味しかったのは、キジ料理の店で食べた焼肉と出汁で食べるそば。豚骨スープのにゅうめん、コギグクスもとても口に合った。同居人いわく「スガキヤのライン」(笑)


東門市場の夜市場では、遅い時間にも関わらずごま油やみかんのお菓子など色々買うことができた。目の前で作ってくれるスイカのジュースもとても美味しかった。

あなたの名前を呼べたなら



「裁断さえしっかりやれば、縫うのは簡単」

オープニング、ラトナ(ティロタマ・ショーム)は妹に勉強するよう声を掛け、スクーター、バン、バスと乗り継いで村からムンバイへと向かう。バスの中で、すなわち村から離れたところで腕輪をはめ(その意味するところは後で分かる)イヤフォンをする。実に今を生きているという印象を受けたものだけど、その彼女が故郷では夫を亡くしたために「人生が終わった」とされ(婚家に毎月4000ルピーの仕送りをしていると後で分かる)、都会ではというと田舎者のメイドというので人間扱いされない。使用人同士の温かく心強い交流はあるが、彼女自身は表に出さない、その辛苦を思う。

ラトナはがっちりと掛けられた鍵を開け高級マンションの一室に足を踏み入れる。その中において、彼女とアシュウィン(ヴィヴェーク・ゴーンバル)はメイドと主人でありながら人間同士として付き合う。何かしてもらったらお礼を言う、何か言われたらそうかもしれないと考えてみる、誕生日ならお祝いする、そういうことをし合い少しずつ心を通わせていく。当初立ち入らない部分にも、知り合うにつれ足を伸ばしていく。一歩外に出ればそれは認められるものではないが、映画は再び鍵を掛けられたその中にもう誰もいない、つまり二人がそこを出て、その関係が密室から社会に広がるのに終わる。どんな形であれ…まぼろしであれ逃亡であれ。

映画がしっかり編まれた黒髪と色とりどりの布に始まるのには、やはりル・シネマで見た、この劇場で見た中で最もお気に入りの映画の一つ「モリエール」を思い出した(そちらではそれは当時の商人の裕福さを表しているようでもあったけど)。ファッションデザイナーを目指すラトナが床に座って足の指で布を抑えて裁断などするのが面白く、日本とインドは遠くて近い、地べた文化だなあと思っていたら、経済格差が大きいインド(アジアの国、と言っておこうか)においては、床であれこれすることは貧しさをも表していると分かってくる。玄関で靴を脱ぎ室内を裸足で歩く彼女の足音が印象的な映画だった。

風をつかまえた少年


「school, library, Using Energy, I tried and I made it」。TED Globalでのウィリアム本人のスピーチのうち、本作が特に重視する言葉はこれらである(とエンドクレジットにて分かる)。作中唯一私が涙をこぼしてしまったのがその結実する場面であることからしても、確かにこれらの物語である。しかしそれだけじゃない、族長の言う「小さき者が弱味に付け込まれた時に出来るのはただ一つ、NOと言うこと」、その際ともすればばらばらになってしまう人々を繋げ助けるのがそれなのだ、という話である。

始業式での校長の「我が校には予算がないが、君達の熱意が学校のレベルを上げる」「成功者は頭が二つあったわけじゃない、努力したのだ」に日本の悪人のようなことを言うと思っていたら、この映画における学校はまさに悪政の現場として表現されている。国が教育費を出さないため学費を払えない者は図書館も使えず即退学、理科の授業に潜り込んでいたウィリアムを校長は「他の生徒の家族や教師のお金を盗んでいるようなものだ」と非難し追い出す。日本でよく聞く理屈じゃないか、貧乏人は勉強するなというわけだ。

冒頭のウィリアムの叔父の死は、振り返ると「雨乞いに頼った世代」が遂に倒れた瞬間のようにも思われる。父トライウェル(キウェテル・イジョフォー、兼監督)は母アグネス(アイサ・マイガ)に「雨乞いをしないこと、子どもを学校にやること」を約束させられているが、正直で人を疑うことを知らない彼は「政府が助けてくれる」「この飢饉さえしのげば大丈夫」と受動的な立場から動こうとしない。政府の横暴を目にし変わってはゆくが、いよいよとなれば干上がった畑と格闘している最中に「学校に行ったぼくは父さんの知らないことを知っている」と言われ息子を殴り倒してしまう。

母が父にさせた約束と彼女の「雨乞いをしていた頃は助け合っていたから生き延びられた」とのセリフを合わせるとこの映画の導く正解のうちの一つはこうだ、「文明が発達した今じゃ雨乞いなんてしていられない、しかし助け合いは今でも、今だからこそ必要だ」。女だけの家から食糧を奪われる場面などで、キリスト教、いや神が時に何の役にも立たないことが訴えられている。娘アニーの「このままここにいたら暴行されて殺される」に母が平手打ちをするのはどういう気持ちからだろう、いつまでも娘の気持ちしかある意味分からない私には「そんなことを考えるな」というサインにしか思えない。しかし現実はそれじゃ済まない。母は手紙の「口減らし」の部分に固執するが、娘の決断の理由はそこにもあったことだろう。

元となった実話は児童書にも絵本にもなっているようだけど、この映画は今の日本では「貧乏でも勉強すれば道が開ける」との面ばかりが強調されそうで、作りもシンプルなようで複雑で、子どもに勧めるにも難しいと思う。父の行動や終盤のセリフにさらりと「新政権」が出てくることで大人のやるべきことが示されていると言えるから(14歳のウィリアムは投票という形での政治参加はできないのだから)、まずは私達の背を押してくれるものかもしれない。

よこがお


まずは「(役名)こわい!」なんて馬鹿みたいな感想だって言い得る映画である。ひとえに色んな女が出ているから。女が「女」という位置付けだと、「女ってこわい」なんて違う意味で馬鹿な物言いが世に溢れてしまうものね。
とはいえ私は本作のような、物事とは、人間とは曖昧なものなのだということを理詰めで描く映画よりも、そんなつもりはないが曖昧な何かが見えてしまう映画の方が好きだ。誤解を恐れずに言えばプロパガンダ的な映画が好きだ、その方がちゃんと対峙できる。

冒頭米田(池松壮亮)とリサ(筒井真理子)の間で交わされる「色んな家に行けるじゃないですか」「色んな人の髪を見られるじゃないですか」との世間話に、これは彼らの仕事のコアでありながらコアではない部分について話しているのだと思い、ふと惹き込まれた。大石家で悲しむ母親と自虐する基子(市川実日子)を前に何もできない市子(後のリサ)の姿は、その曖昧な部分で溺れているかのように見えた。
尤もセリフならば「説明してください」「違うんです」「違わないじゃない」を踏まえての、「本当のことなんですか」「恥じるようなことはしていません」が見事だったけれども。どちらも「本当のことですが」が省略されているが、発する者の覚悟の差ゆえ聞き手は言い返せない。

「やばい勃起」を前にしての「あの子がそんなことするわけないと思ってたけど(略)」なんて会話には違和感を覚えてしまった。セックスと暴力を一緒くたにされた気がして。市子はそういう人なのだと、人ってそういうものだと言いたい映画なのだと次第に分かってくるんだけども、軽く扱ってほしくないものを軽く扱われたように感じて。リサの「復讐」の方法だって随分と陳腐じゃないか。
終盤公園のベンチで戸塚(吹越満)が腰を浮かせるのは、市子が性的虐待者にも見えているからであり、実際見ているこちらとてそうでないとは言い切れない。この映画はそういうふうに見てしかるべき映画である。

町で遭遇する、道からいきなりドア、いきなり窓、つまり後者なら外側にもおそらく内側にも出っ張りもカーテンもなく開けたらいきなり公、という建物の部分に私は奇妙な興奮を覚えるのだけど、この映画ではこの窓の魅力が使われており面白かった。

平日の記録


夏ご飯。
飲んで帰った後に同居人が作ってくれた冷や汁冷や汁最高。
ベランダのバジルを使ったジェノベーゼも美味しかった。初めて作ってみたというローストチキンとの組み合わせもいい。
この日のデザートはマーロウのプリン、食べたことのない王様プリンと季節限定の杏ジュレに定番のティラミス。


池袋でまたもアイス。
東武内のヨックモックにて、エルダーフラワーのソフトクリーム。エルダーフラワーは時に苦手だけど、これは口に合い美味しかった。
西武のイケセイ アイスパークでは沖縄のインブルーのジェラート、ピスタチオとミルフィーユを選択。チョコレートが売りなのでオレンジピールがついてきた。

北の果ての小さな村で


教員とは大体が政府の、すなわち何らかの政策の下で働くものだが、この映画の、グリーンランドの大地や海を捉えた映像からは、しかしそうであっても十分、私達は自由と強さを持って仕事に向かえるのだという(作り手はそこにはそうは込めていないであろう)メッセージを受け取った。

ものを教える、ましてや言葉を教えるという行為は傲慢であることから逃れられないもので、教える側がそれにいかに抵抗するかが重要なはずだが、アンダースはデンマーク政府からかつての植民地グリーンランドに「自分は変わらず相手を変えよ」、つまり傲慢であれと命を受けて送り出される。しかも教員とはおよそ先輩後輩含め同僚がいることで成り立つ職業だが彼は全くもって一人、誰にも相談できない。先輩からの言葉といえば先の面接時に言われた「彼らの言葉を学ばないで、相手のためにならないから」のみなのだ。

教員経験の無い彼の授業はつまらない(尤も、ああした状況でどんな授業ができようか!)。しーっ!しーっ!を繰り返し、子ども達の「もっと話したい」という欲求を聞く余裕もない(しかし終盤サングラスを交換した際にアサーが「静かに!」「静かに!」と彼の真似をする様子からして、8歳の彼にとってはそれがそうネガティブな響きではないように思われ、それもまた文化の違いかと面白かった)。傲慢にならないためにできる第一のことは教材研究だが、この環境では何から手をつけていいか分からない。

それゆえアンダースはまず、人々と共に過ごす。そりを作ってくれるよう頼み、それに乗って、いや引きずられてみたり、一緒に干物を作ったり。そして彼らの言葉を覚えて時を共に過ごす。そのことが、漁師を呼んで話を聞いたり地図を使ってスケッチしたりという授業に反映されていく。これらこそ自らの文化を知るという意義のある、現地の人間であっても子どもだけでは、あるいは教員でない者にはサポート出来ない、しかしこの映画の冒頭のお上はあまり推奨しない授業であろう。

中盤以降、とある言語政策下に働く者というアンダースの視点を外れて現地の人々の暮らしを観客に伝えることに重点が移るため、締まりの無さを感じたけれど(そのような視点に囚われてはいけないというふうに撮られているわけでもないので)、最終的に彼はある方向へ力強く向かう。アサーに対し、漁師になるには早いうちから始めねば手遅れになると知りそちらの支援をしつつ、デンマーク語の個人授業も行う。すなわち子ども達に最大限の可能性を与えようとする。これは大変な覚悟のいることだ。

本作を見れば分かるように、文化により学校というものの捉え方が異なる。それを考えた時、私だって普段、同じ日本に暮らしているからと学校というものを同じ文化の元にある一つのものと思い込んでいるんじゃないかと反省した。昔と今とでは「学校を休む」ことの意味が異なってきているように、もっと揺れが、幅があるはずなのだ。

映画の終わりの文章と役名のないエンドクレジットから、この映画では「本人」が「本人」を演じていたことが判明するが、それならば冒頭に示されたデンマーク政府の言語政策のあり方も実際に近いのだろうか。ドキュフィクションとはそんなに大きな要素を観客に対して曖昧なままにしてよいものなのだろうか。昨今多い「長期間取材したことが、対象に寄り添っていることが分かるが、いかにも『映画』らしい映画」ならばそんなことは考えないが、この映画のドキュメンタリー要素の取り入れ方はあまりにてらいがなく却って違和感を覚えた。

平日の記録


池袋アイス。
開店準備中から宣伝文句を横目に楽しみにしていた蜷尾家にて、オープン記念の「台湾青茶フロート」。「ナノ状にした茶葉」がトッピングされているそうで、とってもお茶の味がした。気付かずうっかり頼んでしまったけれどタピオカは大の苦手なので、その部分は頑張って食べた。
パナップが丸ごと乗ったパパパパパナップソーダは池袋パルコ内のカフェのグリコとのコラボメニュー。溶けにくいしのんびり食べられた。