よこがお


まずは「(役名)こわい!」なんて馬鹿みたいな感想だって言い得る映画である。ひとえに色んな女が出ているから。女が「女」という位置付けだと、「女ってこわい」なんて違う意味で馬鹿な物言いが世に溢れてしまうものね。
とはいえ私は本作のような、物事とは、人間とは曖昧なものなのだということを理詰めで描く映画よりも、そんなつもりはないが曖昧な何かが見えてしまう映画の方が好きだ。誤解を恐れずに言えばプロパガンダ的な映画が好きだ、その方がちゃんと対峙できる。

冒頭米田(池松壮亮)とリサ(筒井真理子)の間で交わされる「色んな家に行けるじゃないですか」「色んな人の髪を見られるじゃないですか」との世間話に、これは彼らの仕事のコアでありながらコアではない部分について話しているのだと思い、ふと惹き込まれた。大石家で悲しむ母親と自虐する基子(市川実日子)を前に何もできない市子(後のリサ)の姿は、その曖昧な部分で溺れているかのように見えた。
尤もセリフならば「説明してください」「違うんです」「違わないじゃない」を踏まえての、「本当のことなんですか」「恥じるようなことはしていません」が見事だったけれども。どちらも「本当のことですが」が省略されているが、発する者の覚悟の差ゆえ聞き手は言い返せない。

「やばい勃起」を前にしての「あの子がそんなことするわけないと思ってたけど(略)」なんて会話には違和感を覚えてしまった。セックスと暴力を一緒くたにされた気がして。市子はそういう人なのだと、人ってそういうものだと言いたい映画なのだと次第に分かってくるんだけども、軽く扱ってほしくないものを軽く扱われたように感じて。リサの「復讐」の方法だって随分と陳腐じゃないか。
終盤公園のベンチで戸塚(吹越満)が腰を浮かせるのは、市子が性的虐待者にも見えているからであり、実際見ているこちらとてそうでないとは言い切れない。この映画はそういうふうに見てしかるべき映画である。

町で遭遇する、道からいきなりドア、いきなり窓、つまり後者なら外側にもおそらく内側にも出っ張りもカーテンもなく開けたらいきなり公、という建物の部分に私は奇妙な興奮を覚えるのだけど、この映画ではこの窓の魅力が使われており面白かった。