田園の守り人たち


これは面白かった、次から次へと違った様相が現れる稀有な映画。

馬車を降りたフランシーヌ(イリス・ブリー)が閉じられた扉を自らの手で開いてドアを叩く時(ナタリー・バイ演じるオルタンスがそこには居ないのが示唆的)、ルグランの曲が不意に鳴り響いて胸が高鳴る。後にこれは孤独な彼女が共同体をノックした瞬間だったのだと分かる。以降、フランシーヌが家族の一員に近づく度にこのテーマが流れるが、結局は変化を望まぬ怪物がそれを阻む。最後に違うアレンジの同じ曲を背景に彼女は家を去る。

合同葬儀で戦死者の名が読み上げられる際にその職業が冠され、彼らの真の仕事は戦争じゃないのだと強調されるのが印象的である。田舎でそう職種もない中、オルタンスの長男コンスタンも長女ソランジュ(ローラ・スメット)も教師である。中尉として戻ってきたコンスタンは妹の職場で教壇に立つ。カメラは不在の彼のことを知らないであろう子ども達の、どこか均質な表情の数々を長々と映す。

教室に続き、農作業途中の昼食、教会での葬儀と、「戦争にとられる者」以外の人々をじっくり映す場面が繰り返されるが、それは次第に一律さを失ってゆく。物語は「男女間のセックス」「異国間の交流」が戦争を背景に悪い面を剥き出しにするところを見せた後に、銃後の人々も決して一丸ではないことを示す。これが特徴的で面白い。フランシーヌが来た当初にオルタンスやその兄が彼女に料理を教えることで行われていた「継承」も気付けば途切れている。

追われた後に妊娠に気付き、「農場で過ごした時間を信じます」と手紙に認める一方で「お金ならある、子どもは私が育てる、彼が継ぐのは私の名前」と言い切り、やはり返事が来なければ髪を切るフランシーヌの強さよ。この場面ではその髪の軽やかな手触りが画面から伝わってくるようだった。アメリカ兵と会っているのを謗られたソランジュが「お金はもらっていない、性欲があるから」と言い放つ場面とこのくだりは、古典的な物語に分かりやすく埋め込まれた現代性である。

映画の終わり、カメラはソランジュが「戦地から農場を仕切ろうとしていた」夫に彼が不在の間の変化、アメリカから買った道具やトラクターを見せる様子をたっぷりと映す。オルタンスは「女手」で守り抜いたどころか大いに収益を上げた農場を前に「昔に戻ったようだ」と口にする。息子を、孫を失った彼女が自身に言い聞かせているようにも取れる。そして若い二人は意外な場で再会する。戦時下でなくてもよくある話じゃないかという点で本作と「Cold War」には通じるところがあるが、あらゆる点で私はこちらの方が好みだ。

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Netflixで配信中の「戦時下 女性たちは動いた (1914-1918)」(2014年フランス)は第一次世界大戦下のヨーロッパの女性たちについてのドキュメンタリーで、語り手はナタリー・バイ。女性参政権運動の高まりが愛国主義に取って代わられ、体よく使われるも戦争が終わってみれば「男性との溝は余計に深まっていた」という女の歴史を大まかに知ることができる。冒頭「1914年のフランスにおける女性労働者の割合はヨーロッパで最も高い三分の一、しかし賃金は男性の半分だった」と言うので、映画でオルタンスがフランシーヌに払っていた賃金はどのような程度だったのか気になった。

平日の記録


恒例、浅草寺ほおずき市。いつもと同じような時間に出向いたのにいつものお店のほおずきが売り切れていた。全体的に、昨年の売れ行きや天候の影響などで仕入れを減らしていたらしく、これまたいつも写真を撮る場所から見下ろしてみてもちょっと寂しい感じ。
これまた空きスペースも目立つ出店の中からいつもの鮎の塩焼きと、初めて見たエビ入りタコ焼き。エビの味、全くせず。でも食べてよかった(笑)


厚切トースト。
池袋にもやって来た猿田彦珈琲にて、角食厚切りトーストにカルピスバター洋梨風味の生キャラメルラテ。「期間限定」の後者に惹かれたのが間違いだった、組み合わせが悪かった(笑)
神保町に出た際に立ち寄ったCAFE&BAKERY MIYABIでは看板メニューのハニートーストとブレンドコーヒー。大きさにおののいたけれど案外食べられた。

サマーフィーリング


「アマンダと僕」(2018/感想)のミカエル・アース監督の2015年作。

「アマンダ」でも印象的だった公園と開かれた窓に映画が始まるのに、作家とはモチーフを繰り返すものだと思う。しかし同じものが違うことを語るために用いられている。冒頭、身支度を済ませたサシャが公園をゆく目つきは用心深く、帰宅途中の彼女が倒れても誰も近寄らない。前作では共同体の力強さの象徴のように見えた公園が、本作では、サシャがロレンス(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)に提案する小説のタイトルが「地下鉄で公園へ」であることからも分かるように、二人がまだ到達していない、その一員ではない世界を表している。それは後に彼がジョシュア・サフディ演じる友人に漏らす「世界との距離感が掴めない」ではっきりする。

「アマンダ」のダヴィッドは姉の死により残された姪のためその家の簡易ベッドで寝泊まりすることになるが、本作のサシャの妹ゾエ(ジュディット・シュムラ)は息子を送りがてら別居中の夫の、かつては自らも住んでいた家でソファに寝る。近しく大切な人の家だが自分の居場所ではないところに眠るというこの場面で(後に彼女は「リビングは外の音がうるさい」と夫のベッドに入るが)、前作と重なる要素を多く託されているのが彼女であると気付く。彼女は住まいを持たず、前作で短期滞在者向け住居の案内人をしていたダヴィッドのように街にやって来る人を迎える仕事をしてもいる。

アヌシー湖で皆から離れて一人泳ぐゾエ、「どこにも居場所がない」と口にするイーダもロレンスと同じく世界のどこにも足を着けていない(この辺りをいきなりセリフで説明してしまうあたりはまだ青いと言える。かっちりした映画が好きな私はそれゆえ「アマンダ」の方が好み)。しかしとある鮮烈な、愛の交歓とでも言うような時を経て、映画の終わり、世界の色々な場を映したフィルムにロレンスとイーダがふと写り込んでくる。二人は世界の一部になったのだ。鮮烈な画面だった。

平日の記録


夏前のコーヒーとアップルパイ。
渋谷のシンクス内のポールバセットにて、「クラシックスイーツ」シリーズからアップルパイのセット。アイスクリームの下にかすかにコーンフレークがまぶされていたのが嬉しい(笑)
池袋でアップルパイと言えは穴場はジュンク堂のカフェ。コーヒーは不味いけれど静かで落ち着ける。

まどろみのニコール/ステーション・エージェント

特集上映「サム・フリークス Vol.5」にて二作を観賞。今回も素晴らしいイベントだった。


▼「まどろみのニコール」(2014年/ステファヌ・ラフルール監督)で描かれるのは、両親不在の家で夏を過ごすニコールの不眠症の日々。「どこへでも行ける、何だってできる」カードを手に入れながら、アイスランドでのハイキング用にと黒く塗ったブーツで庭の芝を刈る。

途中まで「愛しのタチアナ」を思い出しながら見ていたものだけど(ミシン繋がりもあり・笑)終わってみれば監督が編集を担当したという「さよなら、退屈なレオニー」(感想)とほぼ同じ話であった。ニコールが最後に聞く「君は好きなところに行けばいい」とは少年の口を借りた天の、いや自分自身の声だったと言ってもいい。彼女はよその家のソファで作中初めてぐっすり眠る。

私は寝つきが悪く眠りが浅いが同居人は寝つきがよく眠りが深い。例えば金曜日の夜、彼は十一時に寝て、私が本をめくって映画を見ている午前二時すぎにふと起きてきて、「昨日の…」と話し始める。彼の昨日は私のさっき。眠れぬ者に昨日は無い。「さっき」を「昨日」にしたい。不眠症のニコールの姿にふとそんなことを思った。

寝ている親友、寝ていないニコールの傍で扇風機が回っている。夏の夜に眠れない時、傍らの扇風機の運動を感じながら、こんな、どこへも行かない風が涼しいわけがないだろうと奇妙な気持ちになることがある。そのことを思い出しながら見ていたら、彼女も家を出て走り出すのだった。

ちなみにこの映画も私の集めている「登場人物が自分の肖像画を部屋に飾っている」、じゃなく飾ってある、いや飾られている映画だった。居間のあれはおそらく両親が描いたかつての兄と妹だろう。親がいなかろうと親元は親元ということだ。


▼「ステーション・エージェント」(2003年/トム・マッカーシー監督)は鉄道模型店に出勤したフィン(ピーター・ディンクレイジ)が同じところをぐるぐる回る電車の模型の電源を入れるのに始まる。店主の死により寂れた駅舎を相続し、そこに住まうことになる。

小人症であるフィンは「見えない」と言われたり「見れば忘れない」と言われたり。この二つが同時に起こることについては身に覚えがある(…という人は結構いるのではないか)。昨今は「普通じゃない」人が「普通」にやっている映画が多いから、冒頭のこうした差別描写の数々が鮮烈だった。明らかに差別のある世界も一見ない世界もどちらも映画としてあらねばならないと思う。

(「普通」の)白人男性の弁護士が「あんなところ、何もない」と言ったその地において、白人男性じゃない人々によって作られる共同体。フィンが持っていなかった自動車をジョー(ボビー・カナヴェイル)が、カメラをオリヴィア(パトリシア・クラークソン)が用意し、映画までまかなって観賞会をする。

オリヴィアから連絡が途絶えた時、それまでなら考えられないことだが、フィンは彼女の家まで会いに行く。彼女の家の壁と同じ黄色のシャツを着て、長い待ち時間に備えてサンドイッチを持って(食事は大切!)。「一人」をやめるとそりゃあ大変なことが多いが、躊躇なく飛び込んでいく。

元夫とのやりとりに疲れたオリヴィアがフィンを「私はあなたの恋人でも母親でもない」と追い返すのは、それまで恋人とか母親とか名前で完結する関係しか持ったことがなかったがゆえの混乱からではないか。それが最後の画のような、ただ「good time」のための誰かとの関係を築くまでになる。

ところでこの二本、いずれも女性の下着(ブラジャー)を意識させるものだった。前者は男の横で眠れず朝を迎えたニコールがブラジャーを着ける(私には却って面倒なのでしないけれど、前でホックをとめて回すあのやり方で)ことで、後者はオリヴィアがそれを身に着けていない(従って身長の低いフィンのほぼ目の前に乳首が浮き出ている)ことで。前半のオリヴィアがブラジャーを着けていないのは、人に会う気がないことの表れかなと考えた。

週末の記録


雨の週末の甘いもの。
所用で渋谷に出た際、久々の渋谷西村にて金のカトラリーも輝く特選桃パフェ。旬の桃が美味しいのは勿論、その下のシャーベットやバニラアイス、ムース等の組み合わせがいい。
池袋の東武百貨店のマカロン専門ダロワイヨで買ったのは「とろけるあまおう苺」と「アップルパイ風」。楽しく食べた。