Girl ガール


映画の終わりの病室の場面にふと、自分の体をどうにかしようと必死に手を伸ばしても届かないことがある、大なり小なり誰しも…とは間違ってはいないが決して言ってはいけないのだと思った。だってこれは、他人、特に大人の言うことは優しく正しいかもしれないが自分には「違う」という話なんだから。

映画は弟に名前を呼ばれたララ(ヴィクトール・ポルスター)が目覚めるのに始まる。その後は窮屈そうなベッドで柔軟運動に励む。彼女が常に、常に自分の体を意識してあらねばならない状態に持って行こうとしていることからして、その起床に始まるこの映画は彼女がそうしている始終を描いているのだと考えられる(彼女は眠っている間に体が自分の制御下から離れることを嫌悪する)。終盤父親が娘を起こして「まだ横になっていろ」と言うのは、それを続けるのをやめてほしい、休んでほしいという気持ちの表れとも取れる。

水と氷が肝である。ララは皆と一緒にシャワーを浴びずに済むよう学校でのレッスン中は水を飲まず、後でトイレの蛇口から一人むさぼる。それがラスト、ベッドに腰を下ろし静かに水分を取る。彼女の求めた「普通」に近づいたということだ。バレエの先生は言う、「ポワントのために皆は少しずつ練習して足を強くしてきたけどあなたはそうじゃないから大変、でもやるしかない、指を切り落とすわけにはいかないから」。その長いハグは実質的には役に立たず、彼女は氷でその部分を麻痺させて耐える。

光や音の描写も繊細だ。精神科医に「君はもう魅力的な女の子だよ」と言われる治療室での、雲が太陽を遮ったりそうしなかったりで分かれる明暗。初登校した日のロッカールームのざわめきは、いやざわめきじゃない、想像だけど学校が苦手な子どもにとっての学校の音ってこれじゃないかと思った。レッスンの際の伴奏のピアノの音でさえも鋭く攻撃的に聞こえた。家と学校とを結ぶ地下鉄の色の無い感じには、自分の体をどうにもできず他者の目に晒すことしかできない時間のやり場の無さが表れているように思われた。

ニューヨーク 最高の訳あり物件


予告編に遭遇するたび「『ハンナ・アーレント』のマルガレーテ・フォン・トロッタによる…」にそういやそうだったと思っていたのが、見てみたらやはり(邦題から連想させる)ダイアン・キートンが出てくるような作品では全然なかった。今回は「母」役のカーチャ・リーマンが「娘」役だった監督の前作「生きうつしのプリマ」に通じるところもある。

ドイツから来てニューヨークに暮らしドイツに戻った「元元妻」のジェイド(イングリッド・ボルゾ・ベルダル)と、ノルウェーから出てきてニューヨークで成功した「元妻」のマリア(カーチャ・リーマン)。二人の娘アントニアは「ベルリンが私の家」と言い切り「父親にこだわるのはアメリカ人だけ」「金と成功が全ての街で子どもを育てたくない」と口にする。それでもニューヨークの古い家の魔法が存在していたように、私には見えた。

「セクシー」については独自の見解を持ち職場でボスとして主張するジェイドが、その他の色々な概念においては決め付けや押し付けをしてしまう。マリアの「仕事の定義は?」には「稼ぐこと」と答え子どもの世話など仕事と見做さず、「愛は?」には「永遠に満ちていること」と返す。マリアは前者については孫の世話を一日放棄するという実力行使に出、後者については「あなたの愛は盲目なんじゃ?」と何度も問う。どんな関係でもいい、でも目を見開いた上で決めているのかと。

文学博士のマリアの影響を受けてジェイドが比喩を解したり気の利いたことを口にしたりと「進化」していくのが面白い。同時に「私も立ち直るのに時間がかかった」「今のジェイドは昔のママみたい」などのセリフの数々から、マリアもかつてから随分変わったのだと推測される。予告編でも使われている「あなたの心は傷つかない、傷ついたのはプライド」という言葉は経験からの叫びなのである。全ての女の変化の可能性の示唆とそのことへの祝福が感じられる映画だった。

COLD WAR あの歌、2つの心


映画は田舎に始まり田舎に終わる。振り返ればオープニングは土着の文化がスーツの者達によって保護された瞬間のようにも思われる。ポーランドの民俗音楽を残そう、広く伝えようというこの舞踏団プロジェクトにおいて制作側の思惑も勿論一枚岩ではなく、仲間の一人は「この声は野蛮じゃないか」、出向してきているらしき役人は「あの子は髪が黒すぎる、純スラヴ人らしく見えない」などと口を挟む。

(国の上層部の「最高指導者を讃える歌を取り入れれば支援額を増やすからどの(共産主義の)国でも公演できる」に対するそれぞれの態度と、それに続く「田舎の人間は指導者を讃える歌など歌いません」「田舎の人々が無知というわけではなかろう」(と特定の歌を歌わせる、すなわち結局何も考えさせずにおく)なんてやりとりは大変に既視感のあるものだ)

ヴィクトルは「例の子、問題児」であるズーラを「エネルギーがある」と見初める。裕福で神を信じずとも生きられる年長の男と貧乏で父親に性的虐待を受け神を信じる年若い女、両者の自由への態度、あるいは「逃げなければならない度合い」と言っておこうか、に違いがあるなんていつだって同じじゃないか。何もこんな設定の中に置かなくたっていい。組み合わせのありふれようが私には不愉快ぎりぎりだった。

強制送還されるヴィクトルの「最愛の女に会うから一晩待ってくれ」に他の男が「ファムファタルかよ」といわば突っ込みを入れるように、この映画には女もまた生きているということが描かれているが、それゆえ「Rock Around the Clock」が流れる場面なども例えば東西でなく男女間の壁ばかりが表に出ているように私には見えた(でもってそれを今更知らしめてどうするのと思った、悲しいシーンだった)。

作中幾度も使われる鏡による、というか反射による演出が、ピアノにおいても用いられる。私は楽器の中ではやはりピアノが好きなので、鍵盤が蓋の内側に映っているのを見るのは楽しい。しかしヴィクトルの弾くピアノには全く魅力を感じなかった(そういうふうに撮られていると思う)。冒頭彼が「幻想即興曲」を弾く時、同じ立場であるはずの女性のダンス教師はステージ衣装を縫っている。情勢がどうであろうと男女の間に差があることが確かにここにも表れている。

それにしても、モノクロ・スタンダードサイズのスクリーンを見続ける窮屈さから、夜の闇の中に教会の屋根が浮かぶ時だけふと解放されるのは面白いじゃないか。「明るく」なかったら窮屈さを感じない。

パピヨン


パピヨンは自分の血の手形とかサインとか、独房に残さないだろ!と思いながら見ていたら、最後に示される写真の数々から実際そうしていたらしきことが知れ、かつての映画がいかにダルトン・トランボによって作られたものだったか分かった。私はそれが好きだったんだけれども。

73年版「パピヨン」で面白いのは、悪魔島での生活が一見いかにも支障なく見えること。ドガなど(妻に「裏切られた」せいもあるかもしれないが)それなりにやりがいを見出して暮らしている。でも自分の意思によるものじゃないから、他人に管理されているから、パピヨンは逃げる。そこが好きだった。でも今回は一見して支障がある上に椰子の筏が砕けるなどの恐怖も無いから、その要素が薄まってしまっている。
ちなみに73年版の悪魔島のことを思い返した時に連想したのは「この世界の片隅に」。漫画を読んだ時、それはそれで楽しそうな生活だと思いそうになったものだ(映画が公開された後、実際にそういう感想も目にした)。でもそれは間違っている、やっぱり。

73年版は結局パピヨン一人の話だと私は思っているんだけれども、今回の映画はラストにはっきりセリフで言われるように「あそこにいた全ての男達の物語」になっていた。その中には勿論ドガもいて(73年版の彼は脇役だったと私は思う)、それゆえ最後に彼はパピヨンが逃亡したいのと同じように自分も違う類の欲求を持っていると口にするのだ。
チャーリー・ハナム演じるパピヨンが彼のそういう気持ちにその時まで気付かないというのが面白い。マックイーンとホフマンならそんなことはない、口にしなくても通じ合っていた。でもはっきり口にするのが「今」なんだと思う。言わずとも、なんて映画ならそりゃあいいけれど、フィクションは現実に影響を及ぼすから。

アマンダと僕


最も印象的だったのは、人々の家の中から町が、町から家の中が見え、それらが常にシームレスに繋がっていること。人は家でなくコミュニティに暮らしているのだ、そしてエンドクレジットからも分かるように、それは攻撃されても…一部が殺されても、またレナ(ステイシー・マーティン)が「私といても楽しくないから」と一人になろうとするように分断されても…生き続けるのだという話である。ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)が最後にアマンダに教えるように「もうおしまい、なんてことはない」のだ。

ダヴィッドがしているのはコミュニティの庭を整え(そこには「家」を持たない者達も住んでいる)一時的に出入りする人々を案内する仕事だと言える。当初彼は自宅のカーテンを閉めており、外に見るのは「目にすると勇気が出る」レナだけだが、アマンダにサンドリーヌ(オフェリア・コルブ)の死を伝える際に二人の家から出るのは、私達だとてそうするだろうと思われるが、町の助けを借りたかったのだとも取れる。公園には誰もおらず観光客のみが川をゆき、軍人は「散歩する日じゃない、帰りなさい」と二人に言う。その後、アマンダは初めて声をあげて泣く。

冒頭の姉と弟の自転車での帰宅は、彼らがコミュニティの中を自在に、軽やかに泳げることの比喩のようだ。一方アマンダが終盤まで自分で自転車を漕ぐことがないのは、彼女がまだ保護を必要とする子どもであることの強調に思われる。人はコミュニティに暮らすと言っても、子どもには安定した家が必要である。叔父の迎えを待つ、すなわち学校と家の狭間にいるアマンダを教員が「一人でいちゃだめ」と中に入れる冒頭からもそれが分かる。ダヴィッドと共に生きられるとの確信を得た後、ロンドンの公園で祖母アリソン(グレタ・スカッキ)の元に自転車と共に降りてくる姿は子どもながら実に堂々としている。

事情を知らない旧友に「お姉さんにも連絡するね」と言われたダヴィッドが、一度はそのまま分かれるが思い直して相手を追い掛け話をするシーンが素晴らしい。今年公開のフランス映画として、ロマン・デュリスが「私達」として生き始める「パパは奮闘中!」と、カーテンを閉めていたヴァンサン・ラコストが周囲を受け入れる本作とは、「子どもの保護者になる」という筋だけではなく男性が誰かに頼る、誰かと共に歩む感覚を掴むまでの話という意味でも通じるところがある。

週末の記録


緑の記録。
ベランダの内藤とうがらしに花が咲いた。三週間前に苗を買ってきて育てているもの。これからが楽しみ。
伊勢丹の屋上では草花が間近なベンチに腰掛けて地下のフルーツショップで買ってきた盛り合わせを食べる。いつ来ても気持ちがいい。


作ってもらったもの。
和食とのリクエストに応えてくれた日は、こまいの生姜煮(「煮たことないから煮てみた」)、スイカの皮と新玉葱と厚揚げの煮物、もずくのサラダ(茗荷とオクラときゅうりとカニカマとチーズ入り)、いかそうめん、焼き枝豆(「歯医者に行った時にオレンジページで見た」)。どれも美味。
冷やし蕎麦の具は揚げナスと薄揚げと肉味噌とカニカマと瓜の漬物を薄く切ったものとオクラとトマト、おつゆに大根おろし。これも美味。

インスタント・ファミリー 本当の家族見つけました


映画は真っ暗なところ(それは「私」とも取れる)へピート(マーク・ウォルバーグ)がドアを開け足を踏み入れ世界が明るくなるのに始まる。ポール・マッカートニーが「お願いだからドアを開けて、みんなを入れて」と歌うウイングスの「Let 'em In」が程無く流れる時、彼は再度ドアを開ける。映画に養親・養子が出てくるのは当たり前になったけれど、「パパVS新しいパパ」シリーズのショーン・アンダース監督が自身の里親経験を元に作ったという本作はそれ以前の、法的には家族じゃない家族のたどるプロセスを描いている。

始めのうち、エリー(ローズ・バーン)の妹の夫を皮切りに「I'm kidding」「just a joke」といった言葉が耳につく。思ってもいないことは言わないと言うから、これらの描写は、人は衝動を冗談として消費するだけで本当に言ったりやったりすることなく生きているのだということの表れかもしれない。作中の人々が実際の行動に出るうち、そうした言葉は聞かれなくなる。自分を振り返るに、私はこの類のことは全く口にしない。それは日々が「マンネリじゃない」からなのか、衝動が無いほど頭が固まっているからなのか。

ピートとエリーがのぞいてみる里親機関のウェブサイト、説明会、8週間の講習、養子縁組フェアと物事が進んでいく。そうして将来の家族と出会い、知り合い、舞い上ったり沈み込んだり。本作はいかにも「映画らしい」映画だがこうした描写は実にリアルだ。当初ピートは里親になることを自分達の仕事になぞらえ「子どもの色を塗り直して有害なものを取り除く」などと捉えているが、そんなふうには出来ないこと、また犬の保護とも違うことを分かっていく。遊園地での「だめなのは俺がだめだと言ってるから」の際、おそらく二人はあれっ私たち何やってるんだろうと思ったはずである。それが思わずの「だめなんだ」となる。

里親機関の目的は「家族関係の維持」である、とにかく「親の役割を担う」ことに尽きると二人を諭す、オクタヴィア・スペンサーとティグ・ノタロ演じる支援グループのスタッフの描写が素晴らしい。いい映画の例に漏れず本作でも、子どもの周りの大人達が正しく仕事をしている(そうでない者は罰せられる)。何度も描かれるグループの集まりにおいて、他の人の苦労話に思わず笑ってしまい謝るエリーに二人いわく「ユーモアをもつことは大切」「そうしないと乗り越えられない」。その通りに映画自体が笑いにあふれており、何かしようという勇気が湧いてくる。

里親集会で「一時的な蜜月期」と笑われたピートとエリーは「一時的じゃない」と言い返すが、「一時的」があるのが関係というものなのだ。冒頭の説明会にゲストとして呼ばれた家族のその後のように。あのエピソードはとても効いていた。