朝が来る


ウォーターフロントの30階から眼下に眺める海と広島で仲間と散歩する海とが繋がっているということは佐都子(永作博美)と朝斗の母子の会話でも強調されるが、つまりはそういう話である。電話を受ける側に始まり電話を掛ける側の描写に至ってやっと分かった、これは初めて会ったあの時、手を握り合った時に既に家族になっていた、ずっと繋がっていたのにそれに気付けなかったという話なのだと。

ひかり(蒔田彩珠)が、えらいものを背負わせられながら目の前で「ごめんね」と泣かれること二度目の場面で、この映画では皆が泣くが次第にそれらが渾然一体となり誰の涙だか分からなくなってきたなと思う。誰もが同じ淵、それこそ繋がっている海から涙を流しているようだ。その源の暗闇は繋がりに気付けないこと、そのものかもしれない。

しかし私はこの映画があまり好きになれない。多くの要素が盛り込まれているせいか妊娠・出産の描写が地に足着いていないように思われて、更にそのために、それにとりわけ代表される「女のすること」が崇められていると同時に見下されているという現実が単にそのまま、ただただ放置されているような感じがして。

現在観賞中のドラマ「ライブ」(2018年韓国制作)で、チョン・ユミ演じるハン・ジョンオが地元の高校で性教育の必要性を強く訴える(が、保護者から非難され引っ込まざるを得なくなる)というくだりを前日見たところだったこともあり、この映画にはだから!やっぱり!と思うばかりだった。「親が子どもを探すのではなく子どもが親を探すのが目的」である「ベビーバトン」によって家族となった朝斗に対し、佐都子と清和がその(育つ途上の)意思を出来る限り尊重して接していることは伝わってくるが、それ以前にまだ子どもであるひかりの周囲の問題についてはどうすればいいのか、私には映画の中に何も見つけられなかった。