ナイチンゲール


アボリジニの青年ビリー(バイカリ・ガナンバル)が君も食卓につきなさいと言われて流す涙の訳の、ほとばしる一言が強烈だった。まさか映画を見ているあんたたち、ありがたいと感謝してるとでも思ってた?と。

アイルランド人の女囚クレア(アイスリング・フランシオシ )とアボリジニのビリーが始め忌み嫌い合っているのは差別のシステム、映画の終わりにクレアが自分の得意とするもので揺さぶりをかけて去るあの場をほぼ頂点とするシステムの中にいるからである。上位の者は下位の者同士が憎み合う方が都合がいいから、二人はイギリス軍の前では互いを蔑み踏み潰すふりをすることで生き延びる。クレアがビリーにふと身を寄せる、手に触れる、ああいうものは整備された町から遠く目の届かないところにしか存在し得ない。私達はあれを、誰の目にも見えるところまで持って行かなきゃならない。

訴えを聞き入れられず涙を浮かべるクレアに「刃向かった後に泣く、いつもの手か」と口にするホーキンス(サム・クラフリン)の口癖は「うるさくてかなわん」。だから女、子どもでも何でも黙らせるために殺す。この手の、自分が痛めつけている相手の反応を見聞きすることを異様に嫌がる人ってたまにいるけれど、どういう心の仕組みなんだろう。文句や叫びや涙がなければ「何も無かった」と同義とすることができるからなのか、あるいは平穏な中に生きてこられたのでそれを乱すもの全てが煩わしいのか。

言い合いや盗みなど、クレアとビリーが二人で何かをするシーンにふと漂う、というか私が感知する、ほんの僅かなコミカルな空気は何だろう(およそ場面をさっと切り上げることにより発生している)。楽しいことなんてあるわけがないのに。もしも在るとしたらあそこにしか無いということだろうか。