人生はシネマティック!



見終わると、この邦題(原題は「Their Finest」、チャーチルの演説より)、相当な覚悟でもってつけたんだろうね、と確認したくなる。カトリン(ジェマ・アータートン)にトム(サム・クラフリン)は言う、「死に意味はない/人が映画を見るのは、それがきちんと構成されており全てに意味があるからだ」…すなわち、人は人生とは違う「人生」を求めて映画を見るのだと。しかし「双子は映画の『ローズ』のように自分達も技術者になることにした」なんてことも起こり得る。意味は無くとも意思は持てる。


「ワンワンと書くのに犬は雇わない(女のセリフを書くのに女の脚本家は必要ない)」とは、一見上手そうな例えの九割は戯言、の見事な例だ。カトリンがMissでなくMrs.であると知って向こうが喜ぶのは「既婚女性の賃金は安いから」…というのは、彼女が何をしたいかなど考えたことのないエリス(ジャック・ヒューストン)の出まかせだろうか。実際に言われるのは単に「男は3ポンド10だけど女は2ポンド」。それはそう「決まっている」からであって、そのうち同僚は「生活苦を心配」するようになる。


映画制作にあたり、取材した「現実」とは年齢も恋人の有無も(実際に接した彼女達との違いよ!)何もかも変更され既に「真実」からかけ離れているのに、到着しなかったことを問題にするなんて奇妙なものだと思っていたら、「女はヒーローよりもヒーローの恋人になることを望む」と言っていたトムが、「大切なのは船を出したことだ」とカトリンと脚本をいわば守ってくれる。二人の間には押し合いやかけ違いがあり、彼女はやがて自分が望むのは「けんかして、冗談をいって、議論する相手」だと言う(…のはこれが「ロマンチック・コメディ」、あるいは「スクリューボール・コメディ」でもあるという証である)


失意のカトリンがエリスいわくの「君の家」からダンケルクの撮影現場に戻ると、「双子」が歌っている。振り返ればいつだって、家よりも職場の方が温かかった。いや「家」だろうと「仕事」だろうと関係なく、「私」がいるべきは、自分の才能を認めてくれる、「あなたのパートナーの方こそラッキーだ」と言ってくれる人がいるところなのだ…と思い、歌い手変わってのビル・ナイの「Wild Mountain Thyme」に涙がこぼれた。カトリンとトムはそこにおられず出ていってしまうけれど。


面白いと思ったのは、トムのように才能とキャリアがある脚本家でも、同じ映画に関わる他の仕事のことはよく分かっていないという点。よって役者のヒリアード(ビル・ナイ)に「人生をやって見せてるから簡単だと思われがちだがそうじゃない」と言われたり(これってトムがカトリンに言ったのと同じことなのだ、傍から見れば分かる)、「サッカーをしている少年の映像なんかが得意」で済ませていたドキュメンタリー監督の手による映像が素晴らしい効果をあげるだろうとは気付かない。おそらく皆が互いにそうなのだろう。


もう一つ面白いのは、新たなエージェントとなったソフィーがヒリアードに「あなたは36歳じゃなく63歳」と言わなきゃならないなんて、いくら何でもそんなに自覚のない役者っているものだろうかと思っていたら、その設定の妙が最後に分かる点。ヒリアード「おじさん」いわく「女や年寄りにチャンスが回ってくるのは若い男が戦争に行ってるか死んだかしたからだ、でもチャンスをものにしないのは死に生を支配させてしまうようなものだ」。この映画は実に複合的な作品で、ここにまた一本の線が強く引かれる。


映画としてはそういう意図は無さそうだけど、見ていてぞっとしたのは、避難所となっている地下鉄のホームでの、女性を誘って断られた男性の「いいじゃないか、俺は明日から戦地なんだから」。戦争なんてことになったら、その手の言い分が横行するんだ、きっと。戦争は別のステージでの加害者や被害者をも作る。