サイゴン・クチュール


1969年と始まってしばらく、ここで描かれるのはベトナム戦争と無縁の世界なのだ(おそらくそういう一面も実際にあったのだろう)と了解すると同時に、「ミス・サイゴン西洋文化を広める」という新聞の見出しや背景に流れる音楽に昨年の東京国際映画祭で見た「カンボジアの失われたロックンロール」(2014)を思い出した。アメリカ人の監督が興味を持って取り上げていた「西洋文化流入」がアジアの私達にとってはいわば逃れられない日常であること、伝統文化だとて学ばなければ身に着かないということが描かれているのも振り返ってみれば共通点だ。

ベトナムに対して、接点も多少あれど航空会社のCMなどから女性に画一的な美が求められているという偏見が私にはあり、この映画にもそれを感じて窮屈さを覚えながら見ていたものだが、主人公のニュイ(ニン・ズーン・ラン・ゴック)が48年後にタイムスリップし、馬鹿にしていた、いや半分は羨んでいたタン・ロアン(オアン・キエウ)の今や業界トップとなった娘ヘレン(ジェム・ミー)に現代女性のファッションを3パターン作るようチャンスを与えられる場面で引き込まれた。好きなことにかける情熱の描写がこの映画の一番の魅力である。タイムスリップによるカルチャーギャップを、「コンセプト」や「セレブ」という外来語や現代の女性は携帯電話の入らないクラッチバッグは使わないということを知らないといういわばファッションの世界に限定して描いているのも楽しい。

ニュイを支える青年トゥアン(S.T.)が口にする「アン・カインを救えるのは君だけ」、アン・カインとは名を変えた未来のニューなのだから例によって「君を救うことができるのは君だけ」というわけだが、この聞き慣れた文句がこんなふうに使われるとは。48年の時を挟んだ同一人物が現在の窮状に「あんたのせいだ」と責任をなすりつけあうのをどう受け止めればいいのか戸惑ってしまったけれども(笑)膝を着いて謝り助けを請うのがあれから48年を生きた方の彼女というのが、当たり前なんだけれどもよかった。私は伝統を守らねばならないとは思わないけれど、この場合、伝統というより伝統を大切にする人々を蔑ろにした罪とも取れ納得できるんだから上手いというかずるい。

しかし私がこの映画を見て最も思ったのは、長く生きるって素晴らしいということだ。たまにTwitterに若い世代が自分にとって当然の物を知らない、つまり自らが年を取ったということを面白おかしく嘆くツイートが流れてくるが、その度になぜ?知っている物事が多い方が楽しいのに、と違和感を覚える。60年代の流行に現代のセンスを取り入れたデザイン画を生き生きとプレゼンするニューの姿にそのことを不意に思い出した。生きるほどに吸収力が衰えていこうと(それは健康やお金などの環境による部分が大きいと私は考えるけれど)、それでもやはり、日々何かに触れる生の蓄積って素晴らしい。