寝ても覚めても



名古屋は東京と大阪の間にある。始めにメ〜テレ名古屋テレビ)シネマと制作のクレジットが出てそうと知ったゆえの先入観かもしれないけれど、私にはこれは東京と大阪の間にちゅうぶらりんだったという話に思われた。だってこの映画の「東京」の色の無いこと、彩度がどうこうという問題じゃなく、知っている場所が幾ら映っても全く地に足が着いている感じがせず新鮮なほどだった。


朝子(唐田えりか)が自分の心の声をちゃんと聞くことが、信じることができるようになるまでのシンプルな話である。春代(伊藤沙莉)は「あんたの知らんうちに世界は進んどる」と言うが、彼女は成長が遅いのである。足元を注視しすぎて歩けない。「亮平(東出昌大)を好きになってしまった」と分かっているのに「彼とつきあっているのは麦(東出昌大)を待っているからでは」と考えもする。亮平を一瞥しての麦の「待っててくれたんだね」に手を取ってしまう。そんな彼女が平川さん(仲本工事)の畳み掛けるような「お前は許されない」に返答もしなくなる変化のきっかけは、これだってシンプルじゃないか、二人を比べる機会を得たからである。


この映画には比喩が無い。海を見られない麦と見て川に戻る朝子、走る亮平と朝子に追い付く晴れ間、二人を遮る、あるいは前に置かれたガラス、映画なんて全編を比喩として見ることも出来るのに、全くそう感じられない。車を持たない朝子が最後には車で送られるのや譲られるのを拒否して(そもそも免許を持っていないのだ)お金を借りてバスで帰り(お金を借りてもいいのだ、そういう時には!)自分の足で追い掛けるなんて展開でさえ成長の比喩ではない、成長したからそうしたのだと思わせる。それにしても、今から足を持とうとしている朝子に自分を追わせる手段を「走る」にした亮平は優しい人だ。


原作は読んでいないけれど、この映画化の最大の面白さは「そっくりな二人」に一人二役をあてるところにあったに違いないけれど、私にとってはそれが仇となった。朝子についてはそりゃびっくりするよなと心の機微が奪われ(春代の言が「実際に」そっくりであることを担保する)、亮平については「俺に似た顔が忘れられない」と言ったところで「同じ」容姿じゃんと思ってしまう。違いが容姿以外にあるとは理不尽じゃない、いわば対等な関係だもの、怖くも何ともない(作中最もつまらない亮平の表情はディナーの席でのあのむかつき顔である)。更に言うなら、私が彼ならあれだって自分かもしれないから二人が付き合うのもいいと思ってしまうかもしれない。「SELF AND OTHERS」の境界が私の中ではこんな、おそらく映画が意図していないところで曖昧になる。


「朝子はお好み焼きだけはうまいんです、他はダメだけど」なんて古臭くげんなりさせる春代の言葉からのお好み焼きパーティで耕介(瀬戸康史)が「セリフ」を喋り始めた瞬間、涙がこぼれてしまった。あの場面は素晴らしかった、理由は今は分からない。