モリのいる場所



ある人物の顔のアップ(の時点で沖田修一の映画と分かる)、「伸餅」、こんなにこうだったっけと子どもの頃の記憶を思わず掘り起こしたその人物の立ち姿(後に分かることに私の生まれた年が舞台だった)というオープニング。うちのトイレに熊谷守一の絵が掛かっており、あの家の跡に建てられた美術館や著作に接して親しみがあり、あの子は千早小学校を出た同居人でもおかしくないと思う…なんて諸々を除いても私には面白かった(そもそも本作は「熊谷守一」にそう「寄せ」ていない)。大傑作の「横道世之介」に比べたらぐっと下がるけども。


第一に、これは私の好きな「実在の人物のある期間を作り手が自由に創造した」映画である。期間が一日とはこの類の映画としても短いが、本作にはそうでなければならないと思わせられる。冒頭から会話、鼻歌と、物の噛めないモリ(山崎努)がおかずを絵の器具で切って食べるように、断片、断片を味わう映画である。彼は「それ」を生きたいと言うのである。一日の描写は「学校」の時計に始まり終わるが、建設中のマンションのオーナー(吹越満)が腕にはめる時計は異様に映る。あれはまさしく異物である。


第二に、彼の絵から気付けたはずなのにこの映画を見るまで思いが及ばなかったけれど、モリのすることは私が子どもの頃にしていたことと似ている。庭でアリの行列を何十分も見ていたものだ。とはいえ昔も今も私がより惹かれるのは、冒頭、朝食を終えたモリが秀子(樹木希林)の元から出発する時に二度挿入される、庭の「奥」から家を捉えた映像。あの転換に風を感じ、庭の奥に潜んでいたものだ。しかし彼は足元の生物に囚われる(ゆえに一周して秀子のところに戻ってしまう)。なるほどあれが芸術家かと思う。


カメラマンを演じる加瀬亮の表情がいいなと思いながら見ていたら、ラストシーンで分かったことに、やはり彼が一番面白い役だった。「半年通って」掴んだ家と庭の全貌がマンションの屋上から見えることに気付き、躊躇なしに撮影する。その横顔には、普通の人間である私の持つ類の勝手と芸術家であるモリの持つ類の勝手、いずれもがあった。彼の助手役の吉村界人が「志村けんは好きです」と言うのには、顔が似てるもんね、自分を顧みてもそういうもんだよね、などと思う。映画を見ている時のそういう去来が好きだ。