新感染 ファイナル・エクスプレス



公開初日の金曜の夜に見たんだけど、帰りに山手線に乗るのに目の前で電車のドアが閉まるのが楽しく感じられた(見た人には通じる!笑)
子どもの頃「窓ぎわのトットちゃん」が大好きで何度も読み返していたものだけど、一番の魅力は校舎が廃車車両であることだった。「長くて動くもの」の中に居るってことに惹かれるんだと思う(車両に分かれていれば尚良し)。この映画もその魅力を最大限に活かしていた。「列車の外側での一騎打ちは遠景カットを入れる」なんてお約束?も嬉しい。


アヴァンタイトルのたったあれだけの一幕に、変なことを言うようだけど、人間って物語を求めるものだなあとつくづく思う。とてもうまいお話だ。でもってこれまた変なことを言うようだけど、話がよく出来ている映画ほど、「車の運転中に喋っていての事故」なんてことが起きる。「実感」を物語性の方が上回っているわけだ。
冒頭から少女の瞳があまりに心に残る。心情としてはあの瞳が、オープニングタイトル時に出るゾンビと化した鹿の目と同じにならないよう願いながら見るわけだけども、一方でそういう自分の気持ちが釈然としない。話がよく出来ているだけに、私にとっては、自分がゾンビものに入り込めない理由が表立っていた。


ゾンビものの、大手を振って「内」(未感染者)だけを守れるという設定が苦手だ。内の者だけを守らざるを得なくなるというのは現実にも起こる可能性があるわけだから、ゾンビものはどんな作品であれ人間の営みの一部を比喩的に、あるいは超早回しで描いているように見える。更にこの作品ではその要素がもう一段、現実問題のメタファーとして用いられる。私は問題はただでさえ「そのまま」描いてほしいのに、ここには幾重にもメタファーが存在し、息苦しい。加えて、ミクロなパートでは「内」(身内)だけを守ってるようじゃダメなんだという主張がなされるのがまた言い訳がましく思えて嫌だ(笑)
ただ、登場人物の一人につき、私はこりゃあ免疫を持っているなと思いながら見ていたんだけど(例えば「アンドロメダ…」の老人のようなね)、そんなことはなく感染を防ぐ手立てが無いという結末は、問題が簡単に解決できないってことなんだろうと好意的に解釈した。


ゾンビものの魅力はslipにある。端的に言えば未感染者から感染者への、物理的な、あるいは心理的な、移動というか距離。観客が共感しやすい者のそれほど時間を掛けて描かれる。この映画のドラマも全てその中にある。少女がその瞳から初めて涙を流すのもslipの只中、疑惑と保身で爆発しそうな「修羅場」においてである。ここは「そうだそうだ」と隔離に同調する人々の態度に、近年の映画で幾度も語られたハンナ・アーレントの指摘を思い出すべきか。ちなみにこの場面でホームレスらしき男性が一番に皆の言う通りに行動するのは彼が罵倒に慣れているからだと思われ、悲しくなった。
この映画のもう一つのポイントは少女の父親の「責任の所在」である。部下は「僕たちが助けた会社のせいです、僕たちのせいじゃないですよね、僕たちは指示に従っただけですよね」と電話を切った後、一体どうしたろうか?呆然とする父親が手を洗うと「外」の者たちをなぎ倒した血は落ちるが、「運命」は拭い切れない。私には「うけいれろ!うけいれろ!」なんてとても言えないけれど。


(あと、上手くまとめられないのでちょこっとの追記に留めるけど、この手の映画の「色んな人が乗り合わせている」ってやつ、そうは言っても自分はそこには居ないと感じて全然入り込めない。「落語にはダメな人間でもいいという豊かさがある」と言われても、私の持っている、それこそが私を悩ませているダメさはまず見当たらない、というのに似ている)