揺れる大地



武蔵野館で開催中の「ルキーノ・ヴィスコンティ 生誕110年 没後40年メモリアル イタリア・ネオレアリズモの軌跡」にて観賞。この企画はこれで打ち止め。
一月前の衝撃が残っているせいで、この作品はヴィスコンティにとってのケン・ローチの「キャシー・カム・ホーム」(感想)に思われてしまった。形式やその後のフィルモグラフィーは違うけど、私にとってはどちらも世界一美しい(お話や画面がね)映画を撮る監督だし。


何とも面白く不思議な映画である。それはまず、冒頭の文章を読んでから見るせいだ。「これは人が人を搾取する物語である、このことは世界で繰り返されている」に、例えば「歴史もの」ならば少なくともマクロな結末が分かっているが、この「戦い」の結末はいまだ「決まっていない」のだと思う。そこから生まれるスリルとサスペンスがある。「出演者は全てシチリア島に住む一般人である」から(最近なら「出演者が自分自身を演じている」、「ラサへの歩き方」(感想)が近いかな)、あるいは私が「そう思って見る」から、「演劇的」な構図やポーズの数々が却って生々しく活きていると思う。
最後の「彼らは辛苦や希望を表す言葉を持たない、イタリアで最も貧しい者達はイタリア語を話さない」というのは、字幕の字数制限のせいなのか、実は私には意味が判然としないが、作中の彼等があれらのセリフを口にすることの意味を思う。「イタリア語」でなくともああした言葉を与えられた彼らのその後はどうなったかと。


全ての画が決まりに決まっている、というか私好みでうっとりしてしまう。冒頭の海岸での仕事の描写にまず目を奪われる。船の周囲を動き回る男達、手前に仕事でなければ動くのは損だとでもいうように立っている男達、更に手前を自転車の列が通りすぎる。海岸で網を直す作業の、横への広がり。カメラは次第にヴァラストロ家の中に潜っていき、雨の晩の兄弟の寝室でのやりとりなど、私の最も好きな、室内での人と人との図が見事だ。
今回上映されたのは2016年3月に完成した「デジタル修復版」だそうで、そのせいもあってか、臨場感もすごい。妹が鉢に水をやる体で開いた窓の向こうの男は私に微笑んでいるようだし、兄が希望と共に屋根に寝転んだその頭や肩には手を伸ばせば触れられそうだ。一家を祝福するかの大量のカタクチイワシの輝きや、嵐の前の水面の不穏さも眼前にあるよう。


昨年から劇場で数作を見返したところ、ヴィスコンティの映画にはいずれも「パーティ」と「愛、というより執着」があった。本作における前者は、カタクチイワシを塩漬けにするのに皆が集まってくる晩(終盤の進水式よりもこちらのほうがふさわしいだろう)。後者は無い、というか、貧しすぎるゆえに、「無い」という形で意識できるとも言える。面白いのは、真にどん底になった時にこそ、「愛」にも見えていたものが「何」であったかがはっきりするということだ。兄の恋人の「無言の拒否」と、姉と男の間に初めて交わされるはっきりしたやりとりという、一見正反対の形でもって。
「突如語られるテーマ」も本作から在る。少女から「久しぶりの優しい言葉」を掛けられた兄は、(少女に向かっての)カメラ目線で滔々と語る。「助けられる者は助けようとしない」「皆のためだったのに理解されず、嫌われている」「だがいつの日か、俺が正しかったと分かる」。「餓えた男達」が何艙もの新しい船で海へ漕ぎ出してゆくラストシーンには、冒頭の「搾取が世界中で繰り返されている」を思い出した。「それ」の規模はどんどん大きくなるのだと。