牡蠣工場



想田和弘監督の「観察映画」第6弾をシアター・イメージフォーラムにて観賞。


面白かったけど、まさかの船酔い。冒頭とある男性(おいおい「事情」が見えてくる)の牡蠣漁船に同乗するくだりでまず気分が悪くなってしまった。「とびますよ」と言われる前にカメラにへばりつく泥水だか何だかも一役買い、酔うこと=体感することで「ドキュメンタリー」の醍醐味の一つ…撮り手と一心同体でその世界に居ること…をより味わえたとも言える。場面が替わると、同じ音をバックに画だけが移りゆく映像、すなわち先とは違い「その場に居るようには感じられない映像」が挿入され、一陣の風のような息抜きとなる。
ラストの、港に横付けした船上で中国から来たばかりの青年がロープをあれこれするのに手間取るくだりでは、「日本語」を解する私でさえその「やり方」が全く分からず理解しようと頑張ったせいで頭が混乱したのもあり、かなり気分が悪くなり、回復しようとうつむいているうちに映画が終わってしまった。作中の青年二人は大丈夫だったのだろうか?


映画が始まりしばらくしてふと、「牡蠣工場」とは何か?と考える。作業所や水産会社にはそれぞれの名称があり、まとめてそう言っているわけだけど、それだけじゃないように思われて。そのうち働き手である主婦に向けてか食料品(練り物がやたら多く見えた)を乗せた車や、昼時なのかパンを売りに来る車などが現れ、これも「牡蠣工場」なのかな、いわゆる「場」なのかなと思う。冒頭の彼の娘達が、大人達は気にもとめない船底に残った生き物達を取り上げて、海に帰すのと持ち帰るのに分ける場面など面白く、あれだって「牡蠣工場」なんだと思う。漁に連れて行った娘達が自分の仕事を並んで覗いているのを見ての笑顔、最高だった。
私は貝が苦手で牡蠣は全く食べないので、アレを食物として見られないから、変な言い方だけど、冒頭からずっと、「目的」無しにただ色んな人が色んな事をしているようにも見えて(勿論「結実」はあるわけだけど)それも面白かった。でもって最後の最後に牡蠣を食べる場面が出てくるのがうまい。


工場で昼食を作る女性が、監督に対して「ニューヨークに住んでるんですか、広い世界を見てる人っていいですよね…って感じでいいですか?」だなんて、文章で書くとこの(まさに)「感じ」は伝わらない。皮肉でも自嘲でもなく、「普通」にそう言う。でもあの場面に確かにある緊張感、それは監督が感じていたものかもしれない。もう20年前、従姉に「東京の大学に行って一人暮らしをしてるなんてドラマみたい」と言われたのを思い出した。言外の意味は無いようだったけど、ずっと覚えているということは、私もあの時に緊張したんだろう。
「ニューヨークの人達はお給料、たくさんもらってるんですか?」とは唐突かつ曖昧で、そりゃあ返答に困る。私には彼女がそう聞く理由がよく分からなかった。何か言わなきゃと気を遣ったのだろうか?作中ではお金にまつわる場面や会話が多々あるのが目立つ、というか、暮らしていればそれが当たり前なのだ。あの「十万円」の場面、よくあんなのに遭遇できちゃうよね(笑)


「ドキュメンタリー」ならではの「謎解き」要素もちゃんと味わえる。カメラがたまたま拾った体の「後継者が…」「離婚される…」などのお喋りの破片の「意味」が、次第に、映像を重ねるうちに、そういうことだったのかと分かってくるのが面白い。
それから、監督とパートナーの柏木さんの一時の住まいの魅力的なこと。小ぢんまりした一軒家?で、すてきな庭を臨む窓の前にちょっとしたダイニングテーブル。室内に物干しが置いてあるのが旅行風情をもそそる。でもって、この家で柏木さんと二人だけの時の監督の声は、他のシーンと違う!「(玄関の扉)開いてるよ」とか、聞けば分かる、近しい人に対する声なの。それもよかった。