ショート・ターム




「彼なら大丈夫、よくなるよ」
「私もきっとよくなる」


「ショート・ターム」の集会室は「No」「Don't」の貼紙だらけ。例えば(日本の今の)小学校なら、教室の掲示には禁止事項でなく「何々をしましょう」と書くよう薦められる、というか教員ならそう書くだろう。学校でもなければ「親でもカウンセラーでもない」スタッフによるショート・ターム(短期児童保護施設)とはどういうところだろう、と考えながら見た。
外から持ち込まれた荷物は勿論、子ども達がレクリエーションで留守にした部屋はゴム手袋をはめて隅々まで点検する。マットレスの穴に手を突っ込む様子は、映画で見る刑務所入りの際の尻の穴の検査のよう。入所してきたジェイデン(ケイトリン・デヴァー)いわく「ベルトも剃刀もダメなんて、クソ自由だ」


見ているうち、ショート・タームの「門番」、禁止事項の数々、荷物や部屋の点検などは全て、子ども達が自分や他人を「傷つけ」ないためにあると分かってくる。衝動なら反省室の起き上がりこぼし犬に、あるいはせめて「物」にぶつけられるように。命を傷つけないことがテーマだから、終盤には「心臓」が大写しになる。
ショート・タームの意義は、実は冒頭、スタッフのグレイス(ブリー・ラーソン)が、「大学を一年休んで」やってきた新人のネイト(ラミ・マレック)に「ただ安全に過ごさせるのが目的」と一言で説明している。しかし後にグレイスが所長に訴えるように、「毎日一緒に」居ないと、それが実際にはどういうことか分からない。ただ映画を見ることで、「本当」じゃなくても、少しは分かる。最初と最後に繰り返される「同じ」ようなことが、最後には違って見える。彼らが「何」を話しているのか、少しは分かるから。


作中始めに心中を吐露するのは、出所を一週間後に控えた18歳のマーカス(キース・スタンフィールド)。彼は「兄貴分」のスタッフ、メイソン(ジョン・ギャラガー・Jr)にパーカッションを任せ、書いたばかりの詩をラップする。マーカス程深く太鼓を持たないメイソンの出す音は浅く高いが、彼は淡々と叩き続ける。
その後、髪を剃ったマーカスは「こぶが無い」ことを確認してからすくっと立ち上がる。その姿は、先の歌詞で「俺はお前(母親)よりもう強い」と歌ったように大きく見えるが、すぐまた小さくなる。彼にはまだ、何かが必要だと分かる。こういう描写がいい。細やかに色々なことが語られている。


ショート・タームで共に働くグレイスとメイソンの暮らしは、一見満ち足りているように見える。夕食後、ソファに向かい合って互いの似顔絵を描く。しかしそこには「距離」があるように感じられる。それは冒頭、自分より遅く帰宅したグレイスがシャワーに向かった後のメイソンの「何がフロイド(彼女が自転車に付けた愛称)だよ」という冗談めかしたセリフに表れている。彼はもう三年間、自分の車に一緒に乗らない彼女を待ち続けている。
作中最も物を破壊するのは、子どもではなくグレイスだ。「悩みを話す事の大切さ」について日々説いている彼女が、あんなにも自分を支え、求めているパートナーに対しても、自らの傷については話せない。そういうことを改めて誠実に描いている。グレイスが所長室に怒鳴り込む時、自分が傷ついているということ、誰かを助けたく思っていること、しかし「皆を裁く事は誰にも出来ない」のだということ、そしてそれらは私自身の問題でもあるということを突きつけられ体が震えた。「そんな話し方では伝わらない」「自分で話さないと助けられない」なんてことも、きっと「理不尽」で済ませてはいけないんだろう。


グレイスが自らの過去を「打ち明ける」のは、彼女を待ち続けているメイソンではなく、自分と同じ境遇にあるジェイデンだった。「これまで誰にも話さなかった、あなたに会うまでは」「あなたを守りたい」。
グレイスはジェイデンを自転車の後ろに乗せてショート・タームに帰る。女が少女を乗せて走る(尤も特にこのような映画を見ていると「女」「少女」なんて言葉を遣う気になれないけど、便宜上)、大好きな「東ベルリンから来た女」のやはり終盤のシーンを思い出して胸が熱くなった。どちらの少女も、背中の温もりを感じたに違いない。その後、ジェイデンは虐待の事実を社会福祉士と所長に話す。この時の彼女の、どこか可笑しいような、妙な顔がいい。ああいう時にはああいう顔をするものかもしれないと思う。