トラブゾン狂騒曲 小さな村の大きなゴミ騒動



大好きなファティ・アキンが、祖父母の故郷である、トルコのトラブゾン地方に位置するチャンブルヌ村のゴミ処理場問題を追ったドキュメンタリー。


オープニングはスクリーンからあふれんばかりの緑、緑、緑。カメラが移動するとその中にぽつんと、ポリ袋のゴミ。もしかしたらどこかから持ってきて撮影したのかな?なんて意地汚く勘繰っちゃったけど、中盤、ゴミ処理場の傍に住む男性が「全て自分で植えた、子どものような木々」に引っ掛かった似たようなゴミを苦労して取り除いている様子に、こういう具合に飛んでくるのかと思う。
この場面でふと、じゃあ住民…あるいは私だってゴミを出してるんだよなあと思う。でも、ゴミを捨てるのが悪いんじゃない。本作が訴えている問題は、処理場にまつわる全てが「杜撰」であるってこと。まるで「杜撰」を表すために作られたコメディみたい。最後には文字にするとこれまたギャグみたいな大事故が起こる。他のドキュメンタリーならこういうの、映画の神様が降りたんだと思うけど、本作の場合、この「クライマックス」ぶりには言葉が無い。


トルコには「住宅地から1キロ以内にゴミ処理施設を作ってはいけない」という法律があるそう。しかし「丘陵など地形によってはあてはまらない」という特例により、チャンブルヌの銅鉱山の採掘場跡地付近は「住宅地」ではないことにされ、村人の住むわずか50メートル先に処理場が建設された。彼らの暮らしを捉えるカメラがちょっと動くと、そこにはゴミの山。スクリーンのこちら側とあちら側との違いのショッキングなこと、変な言い方だけど、劇場で見る「意味」が大いにある。
採掘跡に「車で上を数回走れば破れそうな」ビニールシートが敷かれ、小さな汚水処理槽が作られ、ゴミの投棄が開始されると、五日目には汚水が染み出し、川に流れ込む。それから先は転げ落ちるように「汚染」が進むばかり。村人達の日常生活やインタビュー、また処理場側の人々へのインタビューの合間に挟みこまれるゴミ処理場の映像、特に「水」が流れるシーンに、決して止められない人災が進んでいることを実感させられる。ゴミや汚水のどアップに気分が悪くなってくるのと同時に、自分の出す「ゴミ」について考えずにはいられない。量を減らすのに加え、自分の出したゴミの行方に関する知識を得なきゃと思う。


私のトルコに関する知識はほぼ、高橋由佳利の「トルコで私も考えた」に依る。彼女のトルコ人の夫が来日して一番驚いたのは、女性が大勢、町に居ることだそう。「一般的」には、トルコの女性は外出しないらしい。田舎が舞台の本作でもカフェやゲーム喫茶?で楽しんでいるのは男性(おじさん)ばかり。でもお祭りには、女性も「普通」に参加している。
作中、村のお祭りが二度描かれる。一度目の際には有名歌手らしき女性が登場し、マギー・ギレンホールみたいな横顔(正面からの顔は映されない)で「もっと近くへ」と村人達を前へ集め、皆で盛り上がる。しかし最後の一言「さようなら、チャンブルヌ」に急に哀しくなった。去って行く人が悪いわけじゃないけど、村に残らない人と、残る人がいる。映画のラストは、自宅に娘?を残して今日も処理場問題に向かう地元のカメラマンの後ろ姿。ドイツに生まれ育ち、今も暮らすファティ・アキン自身はどういう気持ちで現地に来ていたんだろう?本作からは、村人達の前でも後ろでもない、横一列に並んだ姿勢が感じられるけれど。
お祭りの二度目は「これが最後の祭りです」という司会者の言葉で始まる。その後、住民の減少問題が取り上げられる。どういう経緯で祭りが中止になったんだろう?


ファティ・アキンらしく、本作も音楽であふれている。物語じゃなく、現実を伝えるための音楽。上記の歌手のステージを始め、カフェに集うおじさん達による政治批判の即興歌?、お祭りで演奏したり踊ったりする、おそらく地元のバンドやグループ、「若者向け」の音楽フェスティバルの様子も映される。出掛ける前に体中に香水をふりまく女の子の姿(外の悪臭を体感したくないためと思われる)に、ゴミの悪臭対策として管理側が香水を撒いている映像との対比で哀しくなってしまった。「私達はテロリストじゃないのに、なぜ(悪臭に耐えるため)顔を隠さなきゃならないんだ?」と村人が管理側に詰め寄る場面があったけど、香水だってそういうもんじゃないのにと。
(ところでこの「香水」って、「トルコで私も考えた」にも出てくる、トルコ人がいつでもどこでも使うという「コロンヤ」、あるいはそういう感じのものなんだろうか?)


冒頭、村人達によるゴミ処理場建設反対デモの映像が挿入されるのを皮切りに、作中何度も何度も、彼らが「国」に抵抗する姿が映し出される。印象的だったのは、施設のフェンス内に入り込んで管理側に文句を言う村人達が、「とにかく外に出ましょう」と言われても「ここで話し合いたい」と決して動かない様子。「もはや祈りは神のためじゃなくなった、悪臭から逃れられるよう、毎日祈ってる」という言葉にはショックを受けた。
ちなみに本作を見る限り、トルコ人は、日本人に比べ、文句を言う際に大して悲痛な顔をしない。私からするとにやついているように見える時さえある。それがどうというわけじゃないけど、悲痛な顔をする必要って別にないんだよなあ、なんて思わされた。