週末の記録


蟹ご飯の週末。
蟹とたけのこの炊き込みご飯には、同居人が野菜の天ぷら(ズッキーニ、パプリカ、茗荷)を揚げてくれた。思い付きを試したという二種のソース(マスタードと生クリームを混ぜたものと、みぞれあん)で食べたら美味。
炊き込みご飯の残りは翌日都知事選に行った後のお昼に。お吸い物と白和えに、卵を焼いてもらった。ベランダで採れたトマトと瓜の浅漬け二種を添えて。

イップ・マン 完結


武蔵野館にて、上映前の「追龍」の予告で「1974年以前の香港は暗黒時代だった」と聞いてからの、冒頭サンフランシスコでとある席に着いた師匠の顔が何だか沈んで見えてからの、64年の香港。映画の終わりの字幕に師匠は74年を知らずして死んだんだと改めて思わずにいられなかった。
ランボー ラスト・ブラッド」のエンドクレジットはどのキャストの名前が出ている時でも映っているのはスタローン!だったけど、本作の最後にはドニーさんと共にこれまで接した色んな人が出てくる。前者はランボーにとっての世界の話、後者は世界の中のイップ・マンの話なんだと思った。

今回一番ぐっときたのは、帰宅したイップ・マン(ドニー・イェン)が息子と共に入っていく奥の部屋のドアが開いていたところ。序盤の彼は弟子達がいてもそこを閉め切っていたものだ。やはりこのシリーズは私にとって家の映画だ。
前作のラストでチョン・ティンチ(マックス・チャン)に「大切なのはそばにいる人だ」と言っていたイップ・マンが、今作ではそばにいる息子と心を閉ざし合ってしまっている(カーテンを引いているのは息子だけではない)。そんな彼が海を渡ったアメリカで出会うのが、これまでで最も「事情」の異なる同胞にして同じように子とすれ違っている父親ワン・ゾンホア(ウー・ユエ)であった。どちらの親も自分が正しいと信じて子を叩いてしまう。「海外で見る月も故郷のものと変わらない」とはよく言ったものだ。

終盤バートン軍曹(スコット・アドキンス)が「アメリカは最強の国だ、ここへ来られたことを幸運に思え、アメリカの文化に慣れろ、自分達の文化を持ち込むな」と怒鳴っているところへハートマン軍曹(ヴァネス・ウー)が「人こそ文化だ」と大師匠のイップ・マンと共に入って来る。このシリーズはイップ・マンという文化を語るものだったということが分かる(実在の人物とは違いがあれど)。またハートマンの「中国武術海兵隊と同じように可変性がある」からは、この映画は海兵隊、すなわち最後の戦いを見ていた兵士達も変わることができると言っていることが分かる。
加えて印象的だったのは、バートン軍曹が自身の行為について「個人的な恨みからだ」とはっきり口にする点。移民への嫌悪感といったものは個人的な感情で、上の者がそれを振りかざすことによって社会に広がるのだと言っている。

文化とは人であり、人によって伝えられるものである。弟子ブルース・リー(チャン・クォックワン)の路地裏での一戦の後にそれを見ていた師匠のカットが無かったのは、物事は誰かが誰かに教え伝えることによって流れていく、止まることはないということの表れに思われた。

平日の記録


IKEA原宿を初訪問。2階のスウェーデンカフェにてツンブロードの、同居人はクラシック、私はベジチーズソーセージを注文。土地柄クレープを意識して導入したメニューだと聞いていたけれど、まさに隣の女子高校生が二人して甘いツンブロードを食べていて、楽しい気持ちになった。
1階のスウェーデンコンビニではいい匂いをさせていたシナモンロールにほうれん草とフェタチーズを包んだフェタチーズスナックを購入。紙袋が可愛かったので写真を一枚。


新宿フラッグスにオープンしたGAPカフェにて休憩。カフェラテと、クリスピー・クリーム・ドーナツの特製「ブラナンベアカスタード」。どちらも美味。
シアトルズベストでは外では初めてのタルゴナコーヒー。フレーバーにはストロベリーと抹茶もあったけれど「コーヒー」を選択。家で作るものより飲みやすかった。

ランボー ラスト・ブラッド


ランボー」とは私には、まだそんなことにこだわってるの、もう終わったじゃんとは決して言わせない、という(人々の気持ちを代弁する)映画である。それと「ランボー」まだ作ってるんだ、というのが重なるのも今世紀の二本が面白い所以じゃないかと思う。「クリフハンガー」を思い出させる本作のオープニング、救助活動を終えたジョン・ランボーシルベスター・スタローン)を指して他者が「ベトナム帰還兵だ、追跡が上手い」と言う。帰還兵であることが彼のアイデンティティであり、当時培った能力を今も使い続けていることが分かる。

「96時間」シリーズに代表される人身売買(に類する)組織に無敵男が殴り込みに行く映画につき、楽しんでしまいながらも、世界はこれに血沸き肉躍らせないでほしいという気持ちが常にある。ああいう悪は現実に在るのにあんな無敵男はいないし愛する者が被害に遭わなきゃ動かないのか、結局何も変わらないじゃないかと思ってしまうから。しかし見慣れたストーリーをなぞるこの映画ではそういう気持ちが起こらなかった。エイドリアンめいたカルメンパス・ベガ)に向けられる「妹さんのことも無念だったろう」に一番胸打たれさえした。彼女が被害者の肉親である必要は無い、どころかそのために一種の家族主義の押しつけに見える恐れさえあるのに。これは不思議なことだ。

娘のガブリエルの「(実の父親が)家族を捨てたのにはきっと理由がある」にジョンおじさんが諭す「心が黒く(ブラックと言ってたからね)なった男に良心は戻らない」、作中これが反復される。「クズはクズ」だから暴力しかもの言わぬ場があるし、その世界、彼の言葉を借りれば死の世界が終わらないんだと言っている。ガブリエルが会いに出向く父親が私には最も、「クズはクズ」ということを強調するために作られた映画の都合によるキャラクターに思われた(それがダメだというわけではない)。あんなふうに自分を言語化してはっきり言ってくれるやつなんて実際いないもの。

(以下「ネタバレ」です)

作中のランボーが目にするものは死体に始まり死体に終わる。このシリーズが一体何だったのかが最後のナレーションで語られる、「(「死の世界」の反対であるところの)家に帰ろうとしたが心と魂が迷ってしまい帰れなくなった」と。振り返ると着替えさせられたガブリエルを一瞥でそうと認め、掛ける言葉が「もう終わった、家に帰ろう」なんだから、彼女が帰れなかったところでこの話は終わったようなものだ、あとはおまけなのだ。ちなみにこのくだり、他の女達は怖がって一人も逃げられなかったという描写がいいと思った、ものとして支配されてたらきっとそうだろうから。

週末の記録


同居人作の夕食は冷凍豆腐の唐揚げにマカロニサラダ、かぼちゃと薩摩揚げのそぼろあんかけ、コウケンテツさんのレシピだという夏野菜の「ジャンクな」炒めもの。ウインナーを手で千切るのが肝だという炒めものは味付けがカレー粉とケチャップというのがジャンクなんだそうで、パンにのせて食べたくなる味。
久々に私が作った夕食はカニと春菊のグラタンに大根と枝豆とホタテ缶のサラダ。二時間掛かった割にはえらく普通のグラタンだった。

アドリフト 41日間の漂流


「最終的な目的地はない、家へ帰るつもりもない、仕事は旅費が稼げればいい」と生きていたタミー(シャイリーン・ウッドリー)がひょんなことから現在地のタヒチから故郷のサンディエゴに戻ることになる。発つ前に認めた母親への手紙にいわく「ボーイフレンドを会わせます、運命の人だと思う、太平洋を渡れば分かる」。彼女にはそういう旅だった。

嵐に大破したヨットで目覚めたタミーはロープが外れているのを見てショックを受ける。その後に挿入される航海以前の描写では、タミーがサーフィンをする際のロープ、リチャード(サム・クラフリン)が自身のヨットのマストを見る際の命綱などの安全なロープ、足の着く楽しい水中のカットが重ねられ漂流後の対比となっている。

構成がとても上手い。船室のタミーに始まり「それまで」と「それから」が交互に描かれることにより、そろそろヨットが大破するという時とそろそろ漂流が終わるという時とが私達に同時に迫ってくる(尤もそうと分かるのは邦題に「41日間」とあるからだけども。どういう意図で付け加えたのか)。珍しい作りだなと思って見ていたら(ネタバレ)。

寝たきりのリチャードをヨットに残し命綱を付け海へ出ては戻ってくるタミーの姿に、「悲しみに、こんにちは(原題「Estiu 1993」)」の時にも過った、子どもは保護者を基地として冒険し世界を広げるのだという古典的な論を思い出した。彼女はそれまで母に頼ったことはなかったろう(本作には「母」しか出てこない)、でも今、彼がそうなのだと。作中ではリチャードがタミーを自身の母になぞらえるが、あれは実在するタミー本人の思い出を大切にしたのではと勝手に考えた。

タミーの「これが現実だと言って」が力強い。この漂流はもしかしたら夢で私は本当は死んでいるんじゃないか、それは嫌だ、幻なんか見たくない、現実を生きたいんだと。リチャードが答えていわく「君は生きている」。彼の「出会わなければこんなことにならなかった」に対する「思い出がなくなる」もそう、映画の終わりのタミー本人はその答えと繋がっているのだ。

作中通じてシャイリーン・ウッドリーがブラジャーを着けないのが印象的。女の下着とは着けていようといまいと意味を付与されてしまうものだし、着けていることによる自由も着けていないことによる自由もあるけれど、この映画では着けないことはただ、あるがままを表していた。