平日の記録


外食という程じゃないけど店内飲食をちょこっとするようになった。外でコーヒーが飲めるとやはり嬉しい。
スターバックスのいちごソースドーナツは果肉ソース入りでいつも通りの美味しさ。
クリスピーとロータスのコラボドーナツ、ロータス ビスコフ ホワイトクリームには更にロータスビスコフが一枚付いてきた。ドーナツにのっているのは湿気っていたから嬉しい。

はちどり


1994年、ソウルの公立女子中学校。日本じゃ無いタイプの教卓だなと見ていたら、お仕置き棒を手にした担任の英語の授業、リーバイスを履いた漢文塾の「コ大男」の授業、いずれもつまらなく、主人公ウニと親友ジスクは彼らを裏で「先公」と馬鹿にしている。
一方塾に新しくやって来たソウル大学の学生、キム・ヨンジ先生は、自己紹介となれば全員がする(といっても全部で三人だが。この映画ではどこの生徒数も少ない)、内容を掘り下げもする、「顔を知っていても心を知っているのはどれだけいるか」との漢文の教え方も基本的ながら心がこもっている。作中後半ではウニが「先生」「先生」と呼び掛ける声と書きつける文字とが繰り返される。家族以外の関係には彼氏、親友、後輩、色々あって彼女にはどれもありながらどれも流動的だけど、呼びたくてしょうがないとでも言うように使い続けるのはあの「先生」だけ。ウニにはヨンジ先生こそが「先生」、生ける概念なんだと思った。

あまり好きな言い方じゃないけれど「うまい」と思ったのは、万引きで捕まった際にジスクがウニをいわば生贄にした理由が「(店主に)殴られると思ったから」だったこと。想像が及んでおらず衝撃を受けた。この映画には家父長制による暴力が当たり前のこととして描かれており、比べるものではないが、竹刀ならいい、うちはゴルフクラブだもんという彼女はウニより更なる恐怖の中に生きている。
「遺書に(自分を殴る)お兄さんのせいと書いて自殺する、幽霊になってお兄さんがお父さんに怒られてるのを見てすっきりする」なんて想像をすることしかできない14歳のウニに(振り返るとこの時もジスクは自分の境遇に耐えていたのではないか)、先生は「殴られないで、立ち向かって」と伝える…そういう人物、世界を変えようとする人物は世間では「変な人」と言われるわけだけども。ちなみにウニの姉スヒの無事に食卓でむせぶ兄デフンはウニが幽霊になって見てやりたいと思っていた姿に被りそうなものだけど、実際に見てみるとあっけなかっただろう、きっと。

この映画には、娘が母親を一人の人間として見始める過程も描かれている。オープニングの一幕は自分が帰るのがそこしかないという場所に母親がもしも居なかったら、居ても自分を拒否したら、という恐れを表しているように思われたし、外で見かけた母親が大声で呼んでも振り向かず去ってしまうのは家の外に「母親」は居ないからということに思われた。
家具の下に残された破片に、ウニは先生の言う「立ち向かう」を見たのだろうか?終盤フライパンでチヂミを焼く母親の後ろ姿を捉えたカメラには、自分と違う一個の人間を見ている感じがあった。そしてそれを背中で感じたかのように、母も娘をこれまで見なかったように見るのだった。

ウニがしこりを取った「傷」のことを口にするのは男ばかりだ。彼氏のジワンに至っては彼女の「傷が残っても私のことが好き?」に「残らないよ」という趣旨の返答をし(これについては二人ともまだ子どもなのだと思うばかりだけれど)、退院後に再会しての第一声は「傷は残った?」。この辺りには、女の容姿へのこだわりに加えて、大げさなようだけど、女が自身に覚えた違和感を取り除くという行為に文句が付けられているのだと受け取った。
手術後のウニの「私のしこりはどこへいった?」に、そういえば自分も若い頃、お腹の奥にしこりがある、あるような気がすると長い間ずっと感じていたのを思い出した。しこりがあるから何々なのだ、しこりのせいで何々なのだ、といつも考えていたものだけど、文の後半が思い出せない。取らずに大人になったのか、しこりが取れたのか分からないままだ。

フリア IST


EUフィルムデーズのオンライン上映にて観賞、2017年、スペイン、エレナ・マルティン監督。

舞台は主人公フリアがエラスムス計画によって留学する先のベルリン。ベルリン芸術大学建築学科の教授いわく「ベルリンは『(過去でも未来でもない)現在の都市』だ」、理由を問われた学生が答えて「今の課題に対応するので精一杯だったから」、引き取って教授「それがダイナミズムの源泉だ」。この映画ではそれとフリアが重ねられている。夏が終わるまでのフリアの今、今、今。「あなたは誰で何をしてる?」に「バルセロナから来た」としか答えられない彼女の、それでも「今」は力強いんだという映画である。

映画はフリアが恋人ジョルディを乗せて車を運転しているのに始まる。彼女は自分の人生に彼が乗っていると捉えている、という感じを受ける。これは人間の困った部分…という言い方はずるいな、他人に対して余裕の持てない感じ、つまり甘えている感じを見せつけてくる映画である。私にも思い当たる節がある。たった一時間待たされたことへの不機嫌、来てねと言っておきながら行くよと言われると試験があったらどうするの、忙しくて付き合えないかも、なんて返答の数々。スカイプ中にトイレの蓋の上に置かれたディスプレイが虚空(こちら)に向かっている画が印象的だ。

フリアが留学先の皆と過ごす時間やその関係は余裕の無さや甘えの裏返しとも言える。それは決してダイナミズムと相反しない。特に女の場合、そのことが描かれた作品はあまりないから、この映画の価値がそこにあると思う。「ロンドンで美術を勉強して、合ってないと思って、今はベルリンで建築を勉強している」「帰りたくない?今はこのパーティのことだけ考えて」というイタリア人留学生のファニーという女子が初登場時からとても活き活きと描かれており、見ていて楽しかった。

渡独早々、フリアは営業マンいわく「ベルリンの風景と光と音」を体感できる部屋に引っ越す。建築の授業を受け学外の仲間と課題に取り組んでいても、自分の暮らしとそれとが結びついている感じは不思議としない。彼女は次第に友人とシェアしている部屋の家賃を滞納するようになるが、多くの映画と違ってこの映画では家賃の滞納は貧困でも冗談でもなく彼女が生活している実感を持っていないことの表れなのである。これもまた珍しい描写だと思った。

週末の記録


Netflixで見ている「愛の不時着」が最終話に差し掛かるこの週末、韓国のドラマによく出てくるフライドチキンチェーン、オリーブチキンカフェの笹塚店へ。チキンをたくさん買い込んで持ち帰ってテレビの前で食べた。最後の三話は毎回お店が出てきたので楽しかった。


作ってもらったもの。
新メニューの日本蕎麦のペペロンチーノに添えてあるのはいんげんと茗荷と竹輪の天ぷら。同居人はいんげんみたいなものを揚げるとき串に刺すんだけど、確かにきれいで食べやすい。おそばのペペロンチーノも美味。
カニ炒飯はカニは勿論かまぼこ、レタス、プランターで採れ始めたいんげんなどの具が大変に合ってとても美味しかった。

メルテム 夏の嵐


EUフィルムデーズのオンライン上映にて観賞、2018年、フランス・ギリシャ、バジル・ドガニス監督。

舞台は「渡り鳥を見るのに世界一の場所」、レスボス島。主人公エレナは母が恋人マノスと暮らすのを嫌がり父の住むパリへ渡り、連絡を絶ったまま母を亡くしてしまう。それから一年、家を相続して売却するため友達二人と故郷へやって来る。

エレナを性愛対象として好いている友人ナシムにちょっとした嫉妬とすれ違いから「根なし草」と毒づかれ怒って席を立ってしまうことからも、オープニングより何度も繰り返される海中の姿は彼女が「地に足が着いていない」ことを表しているんだろう。それがかの地に根ざすまで、元の名「メルテム」に戻ってギリシャ語を口にするまで、自分の中と外の愛を受け入れるまでの話、それが何によって促されるかという話である。

マノスは警察の科学捜査部で溺死した難民のDNAを再構築するという仕事をしており、学会では「数の裏にある個々の存在を見てほしい」と訴えるが、エレナがシリアから来たエリアスに関わろうとすると「当局の許可なく難民を助けると斡旋業者と思われる」「(彼と離ればなれになった母親が生きている)確率は限りなく低い」などと引き離そうとする。映画の終わり、エリアスは、彼の母はどうしていると思うか、見ているこちらもまた問いかけられる。

地元の祭りに向かう際にアラビア系のナシムとアフリカ系のセクが「俺たちみたいなの見慣れてるかな」と言うとエレナが「難民がたくさんいるから大丈夫」と返す、会場では「ようこそ難民の方々」と歓迎される、浜辺で知り合った男達に自己紹介すると「本当に純粋なフランス人か」と言われる、何かあれば身分証を提示せねばならない、「難民の多い土地」では、いや、いまや世界では「そうでない人」と「そうである人」とを見分けることが頻繁に行われているのを痛感させられる。そういう場所でよりよく生きるにはやはり人間愛が必要なんだと思う。

三人の軽口の応酬に、エレナは一人じゃ故郷に戻れなかったに違いないと思う。旅の間もそれぞれで、ナシムは断食をしている。「今日は食べようかな」にセクが「ラマダンにアフターピルはないぞ!」と返すのには笑ってしまった。

ルーザーとしての私の最後の年


EUフィルムデーズのオンライン上映にて観賞、2018年スロヴェニア、ウルシャ・メナルト監督。不思議と引き込まれる一作だった。

舞台はスロヴェニアの観光地(と何度か言及されるので地元の人にはそういう意識が第一なんだろう)リュブリャナ。30手前の主人公シュペラは大学で美術史を学び卒業したが安定した職を求めつつも就くことは出来ず、ギャラリーで低賃金で働きながらプールでアルバイトをしている。始めは彼女、やがて周囲を通じて、現在ここは納得できる仕事をして賃金を得て生活するという普通のことがかなわない土地であると分かってくる。平熱に見えた彼女が実は闘っていたことも分かってくる。

クビを言い渡され給料が下がってもと食い下がると、高学歴ゆえ昇給しなければならないけれど出来ないから、などと規則を楯に断られる(これが言い訳でなく事実なのであろうことが悲劇だ)。面接先では資金難なのでしばらくただで働いてくれと言われる(どんな業種でもそれがまかり通っていることが後に判明する)。「必死に仕事を探している人より既に仕事を持っている人の方が雇われる」とは友人の弁で、日本でも昔から言われる「経験のある人ばかりを募っている」矛盾した状態だ。行き詰った身の上の人のために近所の16歳がアルバイト用の学生労働許可証を手配して稼いでいる始末。

外国で移民として働く苦労を想像もするシュペラは生まれ育った土地に留まるつもりでいるが、恋人は変わらない毎日に「くるいそう」になりサンフランシスコへ出てゆく。変わらなければと思う者とそうでない者との信条の違いはパートナーには元より大きなすれ違いだが、とりわけこんな状況下ではそれが致命傷になる。環境によって「もつ」カップルと「もたない」カップルの線引きは異なる。

いつまでも傍にいるはずだった恋人に甘えられるベッドから実家のリビングへ(プライバシーは風呂場で確保)、アルバイト先のパブの同僚も身を寄せる家へ、知り合った男性の家へ、シュペラは転々とする。近年見る「寝床を転々と変える女」の映画である。「実家があるからホームレスにはならない」とはいえ居場所はない。家を出る決意をするのが、母親の「私とお父さんが助けてあげられる間に移住しなかったのが残念だ」との言葉だったのが印象的だった。確かにそれを聞かない世界に行くしかない。

精神0


タイトルが出た後、時を経た水辺の舟の画が暗くから明るくなっていくのに、こんな演出をするなんて珍しいなと思っていたら、先日見たばかりの新しい「若草物語」を思わせる手法が取られてもいるのだった。「若草物語」と「続若草物語」(にそれぞれ呼応するパート)が「精神」と「精神0」にあたると言えばいいのか、「精神」の撮影時に撮られた映像がここぞという時にモノクロームで挿入される。「若草物語」の感想で過去のパートの方をいわば善きものとするツイートを結構見掛けたけれどそう思わなかったのと同様、この映画の昔も今も私には素晴らしく見えた。

オープニングの診察室において山本先生が患者に話す「周りの人も苦労したろうけどあなたが一番頑張った、こんな世の中なのによく頑張って生きてきた」というのは、タイトル後の講演の内容…右腕を脱臼したら気落ちして食事をする気もなくなり近所の子どもに注意された、自分のところに来る皆は不自由がありながら何てよくやっているんだ、というのと繋がっている。何らかのプロ、あるいはそうでなくても、人間とは全てが同じ根っこから伸びているのだと分かる。序盤のみに差し込まれる町の人々の映像は、「こんな世の中」についての監督の回答にも思われた。

前半には引退する山本先生と患者達のやりとりが長々と記録されており、このくだりがもう面白い。戸惑いと不安を訴える皆に先生は、そうは言っても電話があるし、と気楽に言いもするし、誰でもいつかは別れるんだから、と諭しもする(ここでああ、これは別れについての映画なんだと思う)。先生のところ以外の精神科の病院は怖かった、何がってインターホンやプラスチックの書類入れ、その先生がインターホンを押したり書類にサインをしたりすればぼくは拘束されて連れて行かれるから…なんて告白、書類入れに対するそんな気持ちがあるなんて初めて知った。知れてよかった。後に判明することに若い頃の山本先生は自宅に患者を泊めていたらしいけど、彼はそれならどうだったろう?

映画は診察室における監督の患者への挨拶と許可願いに始まる。タイトルを経て、先生を病院に迎えに来た妻の芳子さんが力が足りず開けられないドアに手を添えた監督は、そのうち二人の家の応接間でせんべいを食べ(あの音!)酒を飲むまでになる。妙な展開だけど、こうしたやり方があの、芳子さんが洗って片付けたままだったのだろうお碗を先生が取り出すというイベントを発生させるわけだ。全てにおいて大変に時間が掛かっているのに、撮影側の誰かの手が空いていたらどうだろう、手伝ってしまうだろうかと考えていたら、その疑問は芳子さんの友人宅での「そのままにしておいてください」で少し解消される(空いていたら手を出してしまう場合もあるのだ、やはり)。

山本家にはもらいもののお菓子やお花があふれ、友人や患者からの電話だって区別なしにかかってくるだろう、周囲の人々の存在がそこかしこにある。でも結局のところ家は二人だけの領域で、その一番奥の奥が、音の消える、扉を開けたまま先生が見守るトイレということになろうか…そんなことを考えていると、芳子さんの長年の友人の口から、先生の母親が彼女を悩ませた言葉について語られ、この家が二人だけのものになったのは近年のことなんだと思い直す。モノクロームの映像の、即答しない芳子さんが頭をよぎり、先生はかばったり何だりしなかったんだろうかと考えてしまった。そうしたいわば疑念は最後に二人が歩いて行く姿に、愛とは更新されるものなんだという答えを得るわけなんだけども。