年末の記録


年末の洋食。
同居人が作ってくれた、能生で買ってきた蟹の爪を使ったドリアの夕食。寒くもなってきて年末気分高まる。
銀座に買い物に出た際には、何年ぶりかの不二家レストラン数寄屋橋店でランチ。同居人はステーキとピラフのプレート、私は明太子と海老のスパゲティとミートグラタンのプレート。楽しく食べた。


年末恒例、千葉へのお出かけ。
まずは道の駅にて、米袋入りの海水ねぎに揚げたてを一枚食べたら最高だったイワシ天、思わず手が伸びたアップルパイなどを購入。

道中のお昼は海沿いのラーメン屋さんで勝浦タンタンメン、ここのはとても美味しかった。お正月用の豆菓子もたくさん買って準備万端。

平日の記録

[食]平日の記録


to goにて。
銀座にオープンしたてのヴェンキでジェラート。ヘーゼルナッツにチョコレートを合わせたクレミノにピスタチオの二種のフレーバーと、ラズベリーのグルメコーンを選択。一番小さいサイズでも食べごたえ十分。
ニュウマンの一角の初めて立ち寄ったMINI by FOOD&COMPANYでは、コーヒーとグラノーラクッキーを購入。他にも美味しそうなお菓子が色々あった。


休憩時間のいももの。
猿田彦珈琲の金時芋のラテは、最後に沈んだ金時芋のダイスを一度に飲むのも楽しい。
ルノアールでは「紫いもとピスタチオのクリーミーラテ」。トーストも頼んで年賀状を書いた。

サイゴン・クチュール


1969年と始まってしばらく、ここで描かれるのはベトナム戦争と無縁の世界なのだ(おそらくそういう一面も実際にあったのだろう)と了解すると同時に、「ミス・サイゴン西洋文化を広める」という新聞の見出しや背景に流れる音楽に昨年の東京国際映画祭で見た「カンボジアの失われたロックンロール」(2014)を思い出した。アメリカ人の監督が興味を持って取り上げていた「西洋文化流入」がアジアの私達にとってはいわば逃れられない日常であること、伝統文化だとて学ばなければ身に着かないということが描かれているのも振り返ってみれば共通点だ。

ベトナムに対して、接点も多少あれど航空会社のCMなどから女性に画一的な美が求められているという偏見が私にはあり、この映画にもそれを感じて窮屈さを覚えながら見ていたものだが、主人公のニュイ(ニン・ズーン・ラン・ゴック)が48年後にタイムスリップし、馬鹿にしていた、いや半分は羨んでいたタン・ロアン(オアン・キエウ)の今や業界トップとなった娘ヘレン(ジェム・ミー)に現代女性のファッションを3パターン作るようチャンスを与えられる場面で引き込まれた。好きなことにかける情熱の描写がこの映画の一番の魅力である。タイムスリップによるカルチャーギャップを、「コンセプト」や「セレブ」という外来語や現代の女性は携帯電話の入らないクラッチバッグは使わないということを知らないといういわばファッションの世界に限定して描いているのも楽しい。

ニュイを支える青年トゥアン(S.T.)が口にする「アン・カインを救えるのは君だけ」、アン・カインとは名を変えた未来のニューなのだから例によって「君を救うことができるのは君だけ」というわけだが、この聞き慣れた文句がこんなふうに使われるとは。48年の時を挟んだ同一人物が現在の窮状に「あんたのせいだ」と責任をなすりつけあうのをどう受け止めればいいのか戸惑ってしまったけれども(笑)膝を着いて謝り助けを請うのがあれから48年を生きた方の彼女というのが、当たり前なんだけれどもよかった。私は伝統を守らねばならないとは思わないけれど、この場合、伝統というより伝統を大切にする人々を蔑ろにした罪とも取れ納得できるんだから上手いというかずるい。

しかし私がこの映画を見て最も思ったのは、長く生きるって素晴らしいということだ。たまにTwitterに若い世代が自分にとって当然の物を知らない、つまり自らが年を取ったということを面白おかしく嘆くツイートが流れてくるが、その度になぜ?知っている物事が多い方が楽しいのに、と違和感を覚える。60年代の流行に現代のセンスを取り入れたデザイン画を生き生きとプレゼンするニューの姿にそのことを不意に思い出した。生きるほどに吸収力が衰えていこうと(それは健康やお金などの環境による部分が大きいと私は考えるけれど)、それでもやはり、日々何かに触れる生の蓄積って素晴らしい。

平日の記録


同居人の誕生日、北陸新幹線に乗って再び能生へ。通過した軽井沢は雪だったけれど、新潟の寒さは東京とそう変わらなかった。日本海を見るとやはり落ち着く。


マリンドリーム能生にて蟹やらイカやらハラスやらを焼いて食べる。二階の食堂で大好きなたら汁も飲んだ。どれも美味。


クリスマスの夕食は能生から買って帰った蟹を存分に使ったピザとモスチキン、けちな私が思い切って色々入れたサラダなど。ケーキは菓乃実の杜のサンタベア。もみの木の中味はくるりと空洞のあるクッキーだった。

ダゲール街の人々/アニエスによるヴァルダ


アニエス・ヴァルダをもっと知るための3本の映画」にて観賞。写真はシアター・イメージフォーラムの外の壁にいたヴァルダ。

「ダゲール街の人々」(1975/フランス、原題「Daguerreotypes」)はジャック・ドゥミと暮らしていたパリ14区のダゲール通りを捉えたドキュメンタリー。ヴァルダの映画はやはり顔の映画、それから道の映画だと思う。いつもの道から脇に入ってみよう、窓の中から外を見てみようというやつだ。両側にびっしりの路上駐車の間の一方通行をゆく、教習車といういわば動く商店もある。その場合「忘れられた在庫」とは座学の講義内容か。

肉屋さんのウィンドーの外の人が中の人になる瞬間。そのウィンドーは実は開いておりいわば地続きだったと郵便物の手渡しで分かる瞬間。パン屋さんの窯を捉えた、バゲットが焼き上がるくだり。出会いと夢について。出発点、帰着点となる薬局のドアが閉まって私達は通行人に戻り、これはルポタージュ?エッセイ?分からない、と最後に彼女の署名がなされる。


「アニエスによるヴァルダ」(2019/フランス)は自身のキャリアを皆の前で振り返るドキュメンタリー。彼女のテーマ「ひらめき、創造、共有」について作品を引きながら語られる。現実の中から生まれるひらめき(最も分かりやすい例が「落穂拾い」)、創造(「冬の旅」の移動カメラや「少年期」のどアップなど)、最も面白く心惹かれるのが共有についてで、「独り占めしない」「(1967年の作品『ヤンコおじさん』について)楽しいおじさんを共有できた」と作用する。共有に必要なのが編集であるというのも面白い。

特にフランス映画を見ると窓とは社会運動の場でもあると思わされるが、「ダゲール街の人々」でヴァルダはこの街のウィンドーには政治色は邪魔なので無いと言っていた。「アニエスによるヴァルダ」では「ダゲール街」の話に続いて「この映画の反対」と「ブラックパンサー」が引かれる。自分達の美しさについて語る女性の顔のアップがヴァルダの映画でしかないのが、スクリーンで見ると驚異的だった。

(出産一年後、ドイツのテレビ局から白紙委任で映画制作の依頼を受けて)
「私は女性の創造性―家庭や母親としての役割に常に少し不自由を感じ窒息しそうになっている創造性―のよい見本のなるのだと自分に言い聞かせた」「ほとんどの女性は家庭に縛られているという事実から出発した。自分を自分の家庭に繋ぎとめた。新しいへその緒を思い描いて、特製の80メートルの電源ケーブルを家のコンセントに繋ぎ、それが届く範囲のスペースを自分に与えることにした」
(「天才たちの日課 女性編」アニエス・ヴァルダ、1975年のインタビューより。こうして作られたのが「ダゲール街の人々」)

天才たちの日課 女性編 自由な彼女たちの必ずしも自由でない日常

天才たちの日課 女性編 自由な彼女たちの必ずしも自由でない日常

  • 作者:メイソン・カリー
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2019/09/26
  • メディア: 単行本

ある女優の不在


私は悪くない、悪くなかったよね、だって、だって…と女優ジャファリ(ベーナズ・ジャファリ)が確認のためにこれまで縁のなかった場所に向かおうとしている冒頭は、私には時が止まっているように、あるいは進むべき時が進んでいないという意味で後退しているように感じられ、その独特さに心惹かれた。

車を運転するパナヒ(ジャファル・パナヒ監督)が村の一本道におけるクラクションの慣習について村人に訊ねる辺りで、作品の輪郭が見えてくる。彼の「分かってはいるけれど詳しく知りたくて」という言葉は私には大変奇妙に感じられ、都会からやって来たこの二人はやれることがあるのにやっていない、これはそれを告発する映画なんじゃないかとふと考えた(しかし彼のこのセリフをどう解釈するかは本作を見た他の人達に聞いてみたいところ)。

女優を目指すマルズィエの従姉妹が後に語る、クラクションを鳴らさずとも済むよう道を広げようと鋤を手にしたら「それは男の仕事だ」と(言いつつ誰か男性がそれをやるわけではない)取り上げられたという話は分かりやすくも強烈である。女二人が徒歩で一本道をゆくラストシーンは、やはりやれることがあった、ルールを無くさないなら従わず脇をすり抜けていこう、ということだ。

パナヒの映画には元より主観ショットが多く(つまり他のショットは主観ではないと感じさせるということだ)、タクシーに乗っていた前作とJの文字の落ちたパジェロに乗っている本作ではそれは主に車の前ガラスからの映像となり、二作共にそれらがラストシーンとなる。前作では行き止まりに終わっていたのが、本作では彼が女二人を見送る形となる。役者と女の不遇を訴えるこの映画において、監督には、男には、ここまでしか行けないという真摯な認識の表れにも感じられた。

家族を想うとき



「配達先のやつらが元気かと聞いてくるのは心の底からか?
 客が求めているのは値段の安さと配達の確実さだけだ
 このblack boxに全てが入ってる」

職歴を語る際「庭師はよかった、毎日違うところに行けた」と言うリッキーは人との触れ合いを好む。配達の仕事を始めても体が不自由なお客の荷物を運び入れてやったりサッカーについて(例によって)会話を交わしたりする。妻アビーも同じで、彼女の「ルール」は「介護先の皆に親のように接すること」であり、彼ら彼女らに学んで変わろうという気持ちもある。二人は互いにそういうところに惹かれたのだろうと想像する。本来多くの仕事にはそうした要素があり、ほんの数分の余裕からで持てるはずだが、今、それらは押し潰されている。この物語では企業から渡されるblack box、通称gunによって。その大元の正体は、末端のリッキーには分からない。

娘ライザ・ジェーンと息子セブは父を仕事に行かせまいとして「昔に戻りたい」と口にする。戻りたいとは仕事にまつわる世界が「悪化している」からそう言うのであって、それがローチの最も言いたいことなのだと思う。彼のこれまでの映画のラストシーンを思い返し、あの後に、この家族(イギリスの労働者の家庭と言っていい)には今よりよい時があったのだと考えた。万引きしたセブを捕まえた補導員の「努力すれば全てが思いのままだ」は映画を見ている、あるいは見ていなくてもおそらく、今を生きている私達には何とも間抜けに感じられるが、同時にこれがおかしいなんて社会の方がおかしいじゃないかとも思う。

息子が捕まったから出頭するようにとの警察からの連絡を受けるほんの数分をせかされるリッキー。クラクションと共にドライバーの出払った集配所の駐車場の、陽の光の元の残酷さに心が震えた。「私」のない朝に何の希望があろうか。学校が休みのライザと一緒に配達に出て楽しく過ごすも「客からクレームが入ったからやめろ」と言われたこともあった。自営業のはずなのに。こうした、全ての余裕を奪おうとする権力に私達は抵抗し続けなければならない。それは例えば、リッキーが「勉強はworkじゃないだろ」と苛立ちを募らせるセブの停学通知の文章、ああいうところからでも出来えるのだと思う。