週末の記録


弥生美術館で開催中の「創刊65周年記念『なかよし』展」へ。私は超!りぼん派(だけど友達に借りてなかよしも読んでいた派)だし接していたのはほんの数年間だけど、とても面白い展示だった。たかなししずえのレターセットに、これ欲しさにこの号を買ってもらったことを閃光のように思い出した。写真は思わず買ってしまったクリアファイルとポストカード。


所用で月島へ。二人揃ってもんじゃはあまり得意じゃないのでお店を探すも適当なところが見つからず、お弁当を買って公園で食べる。これがなかなか楽しかった。公園向かいのパティスリー ハットで買った看板商品の「月島ロール」も昔ながらの味で美味。


浅草に出た折にはヨシカミで遅めのお昼。同居人はエマンセステーキ、私はビーフシチュー、スープとサラダとロールパンにグラスワインを付けて。お肉、とても美味しかった。会計の際におめでたそうな根付をもらう。

グレタ GRETA


予告には全くもってそそられなかったけれど、見てみたら、流麗、寂しいけれどしなやか、音楽はベタながらわざとらしくなく品があるといういつものニール・ジョーダン映画だった。エンドクレジットによると撮影はアイルランドとカナダとアメリカで行われたそう。スティーヴン・レイがやっぱりそういう…という役を楽しげに演じている(笑・スーツがよれてるのや階段を上る何てことないシーンがいい)

「私はアメリカ国民」と言ってのける(しかし「記録によると帰国している」)グレタ(イザベル・ユペール)は、縁があると見せているフランスとは特に繋がりのないハンガリー人ということで、ニューヨークではいわば二重の、あるいは強みを持とうと二重であることを選んでいるマイノリティである。面白いのは彼女が単なるきちがいだということ。マジョリティのきちがいは映画に幾らも居れどマイノリティのきちがいって案外見ないから、これも「普通」の広がりのように感じられて嬉しい。

フランシス(クロエ・グレース・モレッツ)は、地下鉄から持ち帰った巨大な、いや奇妙に大きく見えるハンドバッグ(この映画はこういう画の数々が面白い)について、同居しているエリカ(マイカ・モンロー)と「地元のボストンなら皆が持ち主に届ける」「マンハッタンじゃ爆弾処理班を呼ぶんだよ」と会話を交わす。大学卒業を機に親にマンションを買ってもらったというエリカはまさにニューヨークの人間。冒頭の彼女の露出の高い服装は、自らを覆っているグレタのそれとは対照的に(年齢によるものではないように)思われた。

グレタに付きまとわれるフランシスは、エリカの「目を見て嘘を言うの、私は得意だからやり方を教えてあげる」とのアドバイスを聞き入れて実行し、ますます窮地に陥る。これがエリカなら上手くいったのだろうかと考えると、バッグを届けることなどしない彼女はそういう状況にならないわけで、ここにある種の現実を見て寂しく恐ろしくなる。これはマイノリティが罠を仕掛けて自らの「箱」に獲物を誘い込む話だと言えるが、結局のところ、被害者となるのもマイノリティなのだ。とはいえ本作には監督らしいどこか明るい希望の空気が感じられ、見終わって暗い気持ちにはならない。

Blinded by the Light


東京国際映画祭にて観賞、2019年/イギリス/グリンダ・チャーダ監督。1987年のロンドン郊外、ルートンを舞台に、ブルース・スプリングスティーンの音楽に出会って変わってゆくパキスタン系青年の姿を描く。

主人公ジャベド(ヴィヴェイク・カルラ)が高校の放送室へ「ボスの曲をかけてくれ」と頼みに行った際の「親が聞く(ような古い)音楽だ」「うちの親は聞いてない」(…から、シーク教の友人の家庭もそうであろうことに気付かされる)。家で父親に叱られる際の「彼がお前のために歌ってると思うのか」「ぼくに話しかけてる」。まずはそういう話である。

エリザ(ネル・ウィリアムズ)との初デートの際にジャベドは「白人は家から出るけどぼくらは逆なんだ、家族のために生きるんだ」と言うが、一家は本当に「うち」に住んでいる。父親いわく「目立っちゃだめだ」、親戚宅では玄関におしっこされるからとビニールを敷き黙って始末している。周りとは違うレイヤーに生きているようだ。悲しくなったのはエリザの母親が口にする「娘は挑発的な人ばかり連れてくる」。自分の心の揺れを相手のせいにするなんて、昔からずーっと、どこにもあることじゃないか。

グリンダ・チャーダは、ともすれば呑気に見えてもきびしいところはきちんときびしいという作家で、例えば「英国総督 最後の家」は「インド人はイギリス人をずっと憎んでも構わない」という話だったものだけど、その視点はここでは隣人の「クズはクズだと言い続けることが必要」に表れているように思われた。この映画は実は始めからずっと、最後の「朗読」でジャベドが言う「ぼくたちは一人じゃない」という話でもあるが、そこにはちゃんと楔があるというわけだ。

ポップミュージックには詩、いや言葉という要素がある、これって案外映画では描かれていないことだ。本作は物書きの話でもある。ジャベドに自分のことを書き続けるよう背を押すミス・クレイ(ヘイリー・アトウェル)が国語の授業の初回でサッチャーの批判をすると、エリザが面白そうだと身を乗り出してくるのがいい。ミス・クレイの「この町の悪口ならわたしも負けない」なり校長先生の差配なりティファニーへの一言なり、先生達もチャーミング(笑)

エンドクレジットでブルース・スプリングスティーンの後に「英国総督 最後の家」に続いてインドのA・R・ラフマーンの曲が流れることや、作中ジャベドの両親がバングルを売って娘の結婚費用を捻出する場面で父親がいつも聞いているような曲が丸々一節流れることからは、チャーダのルーツに対する意識が窺える。ちなみに息子は家を出る際、ブルースのグッズを売ったお金でバングルを買い戻し、母親に渡すのだった。

人生、ただいま修行中


ニコラ・フィリベールがフランスの看護学校の学生達を撮ったドキュメンタリー。原題は「De chaque instant」(全ての瞬間から)だそうだけど、邦題の「ただいま修行中」とは奇妙だ、仕事をする限り修行は続くものじゃないかと思いながら見始めるも、面白かった。映画の終わり、風と音のある外へとカメラが出て、息をして、「Don't Think Twice, It's All Right」へと流れてゆく。

私がしたことのないやり方での手洗いで幕を開ける第一章の舞台は学校。手洗いに注射の気泡抜きといった、基本中の基本だろうが習わなきゃできないことに始まり座学の様子も結構見られる。同じ内容を別の先生が扱う際の違いや、授業中にくっつき合ったり抱きつき合ったりといった女子の様子(日本人以外の学生は時折するんだよね、私は好き・笑)など楽しく見た。学校が舞台の映画にはあってほしい、学生不在時の静けさが織り込まれていたのも嬉しい(尤もここで監督が注目しているのは別のものだが…見れば分かる・笑)。同一学校なのに内部がまちまちなこと、設備が質素なことからは、看護業界が金銭的に豊かでないと推測される。

空のベッド(のメイキング)に始まるのがブレスのようで上手い第二章の舞台は実習の現場。指導担当者とのやりとりも挟み込まれ、どのような業界でも流れを途絶えさせないために先輩が後輩を育てるのだと分かる。面白いのは学生と患者が対峙する際に生じているはずの「心配だ」「痛い」といった心や体の「感じ」が伝わってこないこと。映画を見る者には実に「見る」ことしか許されていない、それが本作の誠実さである。ちなみにこの章に収められている実習風景は血圧を計ったり消毒をしたりといった他と比べれば「軽い」処置の様子が主だが、三章では彼らが死にも直面していたことが判明する。撮影する場や時間にかなり配慮した結果そうなったのではないかと考えた。

第三章は実習を終えての学校での面談。話しているうち学生の矜恃が見られたり、教員の特色が伝わってきたりするのがまず面白い(何て難しい仕事だろう!)。始めより日本の専門学校しかり、フランス語が母語の者ばかりじゃないよなあと思いつつ見ていたのが、ここへきてそれぞれの出自まではいかなくとも事情が窺える。アラビア語を話せる人がいないため現場で通訳を頼まれたという学生は、教員に「どうやって看護師の仕事の区切りをつけたのか(どこまでも任されてしまうおそれがあるでしょう)」と問われる。ここで一章の座学で看護師の仕事の領域について学んでいたのを思い出すというわけだ。こうした瞬間にも何とも言えず満足させられた。

週末&平日の記録


横浜にお出かけ。
崎陽軒本店にて私はマロンパフェ、同居人はコーヒーゼリー。わりかしぞんざいな作りだったけどお店の居心地もよく、楽しく過ごした。
桜木町駅では「生チョコレート発祥の店」シルスマリアのシァル桜木町店にて定番「公園通りの石畳」を買ってもらう。夕食後のデザートにほぼ一箱食べてしまった。


定番ホットケーキ・パンケーキ。
珈琲館にてトラディショナル・ホットケーキの丸ごと苺ソース。定番の美味しさだけど二枚は多かった。
星野珈琲でも、窯焼きスフレパンケーキの、前回を踏まえてシングルを選んでアイスクリームを添えて。アイスは別に食べた。

最近見たもの


▼ドリーミング村上春樹

東京の夜景と一体になって翻訳に勤しむ、励む、いや何と言えばいいか、ともあれ翻訳家メッテ・ホルムの後ろ姿に続き、デンマークでの彼女のラジオ出演の様子が映る。「日本人にとって平行世界は身近なものなのですか」。村上春樹の本を読んで、訳しているから(現在は日本に住んでもいるそうだけど)、日本を知っているとされる。すなわち本はその国の人々の代弁をしているということになる。

芦屋のバーの客や鮨屋の主人とのやりとりには少々違和感を覚えてしまった、というか口を挟みたくなってしまった。「世の中には色んな人がいると訴えるアーティストがもっといなきゃ」と言う村上春樹より一回り下の世代の男性に対しては、いや、いるけど届いていないんだよ、と。お鮨屋さんに対しては、いや、若い人はお寿司、食べられないんだよ、と。なぜそんなことを思うかというと、やはり「代弁」の問題だろう。そんなことを考えた。

ガリーボーイ

他人同士と見えた二人が夫婦・恋人だった、という登場のさせ方を私はカウリスマキの「浮き雲」方式と心の中で呼んでおり、この映画も使っていたので楽しい気持ちになるも、程無く彼らはそうしなきゃならないのだと気付いて少々恥じ入った(勿論それを活かした楽しいシーンとも言えるわけだけど)。この二人、ムラド(ランビール・シン)とサフィナ(アーリアー・バット)の家の楽しくなさが強烈で、そこでは抑圧している側の人間だとて抑圧下にあるが、どうしたってまずお前からやめろよと思ってしまう。

冒頭とある場面で時が止まっているような奇妙な感じを受けたものだが、最後、どうにもならないことはどうにもないままタイトルが出てすとんと終わった時、この映画の独特な時間感覚はそのためかと思った。フィクションの中で方が付くわけがない、動くのは今からなんだと。「愛撫もろくにできないくせに/私は男を連れ込んだりしない」と叫ぶ母親をムラドが抱きしめるところでは不意にケン・ローチの言葉を思い出した。何かを作り発表するとはその手段を持たない者の代弁であるべきだと。作中のガリーボーイは母の怒りの熱を世に放ったろうか。少なくとも映画はしていた。


▼ブルーアワーにぶっ飛ばす

私は今の同居人と会って帰省の頻度が高くなった。親の命が危なければ自分の命を顧みず助けるだろうが親が死んで初めて自分は自由になるだろう、という気持ちを分かってくれる(この文の通りに言って分かってくれる)、「本線」をゆかない人間、「合流ってむずいっすよね」の人間はそういう相手に背を押してもらいそこに出るのだ。尤も合流しなきゃならないわけでもあるまい、解放されるには他の方法でもいいのではという気もするけれど。

言葉に情報が込められまくっている映画を見ると、母語以外による映画を見る時、いかに開いた掌に受け止める砂のように多くがこぼれ落ちていることだろうと思う。しかし作品における言葉とは違うステージにいる者の意図…こういう人はこういう言葉を使うだろうという観念でもってそこに出現するのだから、このようなやり方で情報を込めまくっているこの映画はかなり際どいとも言える。

▼英雄は嘘がお好き

「三流役者のくせに!」「私が大尉なのに!」とエリザベット(メラニー・ロラン)が叫ぶ場面があるけれど、これは作者と演者の間で行われる争いと融和の話である。物語において子どもは死ぬべきか助かるべきか、ハンセン病患者について語る時「あわれな」と付けるべきか付けずにおくべきか、なんて考えの違いが面白い。二人による「ヌヴィル大尉」が時に彼らの手を離れて飛びまわったり、また支配下に置かれたり、なんて物語の生命力も面白い。

「君の取り分は10パーセントだ」「50パーセントよ」「女なのに?」「今は中世じゃない、1817年なんだから」とのやりとりが可笑しくも「今の映画」として作られていることを明らかにしているが、いわばクライマックスに置かれたコサックの襲撃に際してヌヴィル(ジャン・デュジャルダン)のやることといったらどうだろう。私には現代的には思われなかった。

平日の記録


チェーン店の秋の新商品。
ベローチェのプリンマゼリーは、あのソフトクリームとカスタードクリームにプリンまで混ぜたドリンク。とても甘いけど美味。
マックカフェ(by バリスタ)のグラニースミスとのコラボ商品からはアップルパイフラッペ。甘酸っぱさばかりが続くドリンクだったから、エスプレッソの入った他のものも飲んでみたい。