若草の祈り/わが青春の輝き

特集上映「サム・フリークス Vol.6」にて「文芸フェミニスト映画2本立て」を観賞。


▼「若草の祈り」(1970年/イギリス/ライオネル・ジェフリーズ監督)はイーディス・ネズビットの「鉄道きょうだい」が原作。

助け、助けられることが人の営みだと言っているこの小説を、私は鉄道と誕生日の話だと思っている。鉄道は人と人の繋がり、誕生日は個人の尊厳を表している。原作はピーターの誕生日から始まるのが映画ではクリスマスに変わっていたけれど、ロバータの誕生日の素晴らしさとパークスさんの誕生日の出来事…「行為はその心根が大事なんだ」、その心根を確認するための、傍から見たらくどいかもしれない、けれども当人には必要なやりとりがしっかり描かれていた。

一家が田舎へ向かう汽車が橋を渡る光景の、煙が静かな一歩一歩とでも言うような美しさ、ホームを通り過ぎる窓からオークワースと駅の名がちらちら見える楽しさ、子ども達が駈け下りて見る汽車の、時には下からあおった力強さ、小説からは想像するしかない鉄道の見事な姿が収められている。老紳士との出会いも何とそのときめきが伝わってくることよ。間一髪のスリルや主にピーターとパークスさんが担うコメディ感、「猟犬」とロバータのロマンスの微風といった映画ならではの遊びも悪くない。

お医者が自分を呼びに来たロバータをlittle womanと呼んでいたけれど、そういえばこの話も(「わが青春の輝き」を撮ったジリアン・アームストロングも手掛けている)「若草物語」に通じるところがある。最後の最後に「お母さんの授業」の様子が見られたのはよかったものだ。ところでその後の彼女の「男の人が泣いているのを初めて見た」に対する彼の「男も泣くんだ、私はいつも泣いている」は、私には映画独自の言葉に思われた。女を語る時、男もまた語られる。


▼「わが青春の輝き」(1979年/オーストラリア/ジリアン・アームストロング監督)はマイルズ・フランクリンの同名自伝小説が原作(私は未読)。この映画のラストシーン、すなわち今回のイベントの終わりに、今日私達は女性による女性のための声を受け取ったのだとはっきり分かった。「姉妹達に幸福あれ」と。

主人公シビラ(ジュディ・デイヴィス)が評される「反抗的で役立たず」、その逆が求められている、万力のように私達をいまだ!締め上げているこの世では、女たるものそうあるべきだ(ここなら「たるもの」と言ってもいいでしょう?)。人生はbrilliantなはずだと信じる彼女は「まだ何者でもないのに勉強する時間もない、日がな働いて終わる」「新しい服やピクニックじゃ心はなだめられない」と嘆きつつ外へと向かう。そのエネルギーは雨の中を遊び船を揺らしブランコを漕ぐといった体を動かす方面にアウトプットされるが、心と対話しながら生きるうち、自分が形作られてくる。「My Brilliant Career」と題した文章を、始めは書けないが自分の人生を数年生きた後には書ける、書きたいことがある、これは「若草物語」のジョーの執筆を思わせる。

シビラの周囲の女性達がさりげなくも生き生きと描かれており面白い。「夫に捨てられたから妻でも未亡人でもない、要するに何でもない存在」と自らを捉える叔母さん(ウェンディ・ヒューズ)も、「あなたは昔の私みたい、独立を選んだ女は孤独」と言う伯母さんも、彼女に優しいが彼女とは違う。しかしこの映画で最も印象に残る女同士の場面は、父の借金の形に向かうはめになった家庭教師先の農家の母親と、授業中に見交わす目と目である。あれはシビラが初めて責任と自信を持って行ったことを認められた瞬間だったのではないだろうか。

ジリアン・アームストロングの映画は数本しか見ていないけれど、ポスターにも使われている、シビラとハリー(サム・ニール)が枕で叩き合う場面には、「オスカーとルシンダ」(1997年/アメリカ・オーストラリア)で「変わり者」と言われるルシンダ(ケイト・ブランシェット)とオスカー(レイフ・ファインズ)、いい大人の二人が床の拭き掃除対決をしてはしゃぐ姿を思い出した。彼女の映画にはああいう軽やかさがある。それから寂しくない孤独と希望。

平日の記録


ナッツ専門店のアイスクリーム。
コレド室町の、初めて立ち寄るプラリネ専門店コノミにてソフトクリーム「プラリネグラッセ」。コーンの中までプラリネが入っており嬉しい。
ファーイーストバザール ヒカリエ店ではハロウィンスペシャル。くりりんかぼちゃのジェラートもいいけど、ナッツが美味しすぎて少々かすんでしまった(笑)

円丈独演会

林家きよひこ「うちの村」
三遊亭円丈「金さん銀さん」
円丈に質問のコーナー
三遊亭ふう丈「コンタクト(すみません、タイトル分からず勝手につけました)」
三遊亭円丈「横松和平」
 (中入)
のだゆき(音楽漫談)
三遊亭円丈「グリコ少年」
 (10/19・お江戸日本橋亭

恒例の「落語ぬう」、有名三席をネタ出しで。

「金さん銀さんを知っている人が少なくなったのでこのネタは期限切れかな」「地方の方言というものにも馴染みがなくなってきたしね」といつもながら否定的に本編に入るも(勿論ファンはそれが楽しいんだけども)、この「金さん銀さん」は実際の二人のキャラクターとかけ離れたものだし円丈の「名古屋のおばあさん」喋りはそれに馴染みがあろうとなかろうと楽しめる類のものだしで、全然普遍的な噺である(と本人だって分かって選んでいるのだろう)。

夫婦漫才は皆仲がよかった、春日三球さん(いつも思うんだけど照代の方は言わない、そういうものなのか)のことは本当に好きだった、との馴染みの枕を経て「横松和平」に入った瞬間(「わたしたちって売れなかったわよねー」、この一言が本当に円丈なんだな)、今回の三席って何てバランスがいいことだろうと思う。しかもこの噺を入れるなら真ん中に決まっている。

「競走馬イッソー」に志ん朝が祝儀をくれたという話は何度も聞いたものだけど、「グリコ少年」について馬生が…という話は初めて聞いた。「横松和平」の貧困ネタは皆が貧困層になってしまった今、もう使えないものに思われたけれど、「グリコ少年」の駄菓子屋ネタは非常にタイムリーに思われた。こまかなところが又しても色々変更されており楽しかったけれど、何せトリの持ち時間が二十分しかなかったので実に中途半端なところでサゲて幕して終わり(笑)実にゆるやかな会だった。

平日の記録


こんなメニューがあったと気付かなかったもの。
上島珈琲店バスクチーズケーキ。きわめて普通の、だけどコーヒーに合う。
コーヒービーンティーリーフのフレンチトースト。少しの待ち時間でふわふわのが出てきた。甘さも量もちょうどいい。

ボーダー 二つの世界



「虫を食べるなんて気持ち悪い」
「誰が決めた?」
「みんなが決めた」

(以下「ネタバレ」あり)

ティーナ(エバ・メランデル)がコオロギを手に取り触感を楽しみ自然に返す最初の場面と、同様に手に取り我が子に食べさせる最後の場面は、境界線を他者から引かれこそすれ自らの意思では引かずに生きてきた「彼女」が種にとって最も身近な境界線…対象を食糧として扱うか否かのそれを引くようになったことを表している。物語序盤の彼女は生けるもの全てを仲間と捉えそれらに触れようとしているが(「誰かと一緒にいたい」というのもそうだろう)、同じ種のヴォーレ(エーロ・ミロノフ)に出会って変わったのである。しかし彼女には、あるいは物語から私が受けたメッセージには「他者を傷つけない」という厳然たるルールがあり、例えば子どもを保護するか搾取するかの線引きを強者が行う児童ポルノなどもってのほかというわけだ。

両親が実験材料にされるのを目の当たりにしたヴォーレと、「彼」いわく「家や仕事を持ち社会に馴染んでいる」、苛められたり目を背けられたりする一方で隣人に頼られ仕事を任され「疲れてるようだから休んだら」と声を掛けてくれる同僚がおり、車ではいわば仲間による文化である音楽を楽しむティーナとの間にも境界がある。いや、この物語において最も激しくぶつかる、邦題に沿って言えば二つの世界は彼らマイノリティ同士間のそれで、そういう意味では「ビール・ストリートの恋人たち」や「ブラック・クランズマン」にも描かれていた要素の一つに焦点を当てた物語だと取れる。しかしこの物語の中では、衝突の元凶は可能性などでなく確実に観客にある。告発の体裁を取っているようには見えなくとも。

雷を引き寄せる体質である二人が初めて交わるのがその恐怖を共に乗り越えた後と言うのは、居候の留守もあるけれど、いわゆる吊り橋効果のようで可笑しくもある。しかしヴォーレの定期的な肉体的苦痛も彼らの雷の元での恐怖も、彼らがマジョリティである集団においては何らかの対策が取られており軽減が可能なのかもしれないと思う。個である、マイノリティであるということは、蓄積の恩恵を受けられない、少なくとも受けづらいことに繋がるのだ。ティーナのいわばヒモである(他者に対し「利用する者」と「利用しない者」との境界線を引いている)ローランドが食卓において突如マイノリティになる場面からもそのことがちらと窺える。

ところで、映画の終わりに「家と仕事」を自らの意思で手放しているかに見えることからして、ティーナはあの後フィンランドを目指すのだろうか?私にはよく分からなかった。

週末の記録


上野にて、恐竜展の最終日に出向いてみたら160分待ち!だったので国際子ども図書館に行くも祝日のためお休み、それならばと東京藝術大学大学美術館で「ヒトは描くときに何を見ているか」&「聴く絵画・観る音楽」。採点という問題から入った前者がとても面白かった。


今シーズン初おでんは、新宿お多幸の盛り合わせ(二人とも苦手なちくわぶが入っていたため今回はちょっと失敗だった・笑)と、そこから歩いて帰る道すがらの春川鶏カルビの韓国おでん。どちらも楽しかった。

蜜蜂と遠雷


原作は未読。小説の通りなのだろうか、松岡茉優演じる亜夜の二次予選の際のドレスがよかった、背中の筋肉の動きがありありと見えるのが素晴らしかった(しかも左側だけ!)。自分のは勿論他人のも、ピアノを弾いている時の裸の背中なんて見る機会がないから。

冒頭のエレベーターでの「あーちゃん?」(そんな呼び方をするなんて幼馴染に違いない)に「いつもポケットにショパン」を連想していたら、偶然か実際下敷きにしたかのような話だった。麻子ならぬ亜夜に寄って見れば、これは彼女が「世界が鳴っている」(=「いつもポケットにショパン」、尤も「蜜蜂と遠雷」は「音」を自然界のそれとしているようだが)に還る話なのだから。そこから更に「世界を鳴らす」に至る切っ掛けが回想シーンのセリフ一つというのには無理を感じたけれど(そもそも音楽とは何かを語る音楽映画はあまり好きじゃないので、この辺りには少々冷めてしまった)。

引いて見ればこれは、コンクールという場において音楽に関わる者達が影響を与え合いそれぞれが前進する話である。「敗北した」明石(松坂桃李)の作った曲が亜夜や塵(鈴鹿央士)を居ても立っても居られないほど揺り動かし、彼らの演奏が明石の気持ちを変える。塵は探していたものを見つける。「完璧」から脱しようとしていたマサルも亜夜や「刺客」小野寺(鹿賀丈史)によって思いがけないステージに踏み出す。そう考えたらマサルの学友ジェニファ(福島リラ)が亜夜に投げ付ける「私は脇目も振らず練習してきたのに/フェアじゃない」はその輪に入らなかった、入れなかった者の叫びであり、彼女にもいつか変化が訪れればいいと思う(…のは余計なお世話というやつだろうか)。

音楽に関わるのは「天才」ばかりではない。水辺での10周年コンサートに集う市民(不意に漂うドキュメンタリーの匂い、これは撮影参加者に対するこの映画からの音楽でのお礼だろう)、素晴らしきホールで働く人々、オーケストラの面々、皆が音楽を楽しんでいる様子が収められているのがいい。私の大好きな、弦楽器を上げ下ろしする時の木の器械の軋みのような音もよくよく聞けたし、管楽器の方では、リードを出して咥えるのをなめて演奏場面が始まるのものよかった。調律師達がリハーサルが終わるとステージに階段を使わずうんとこしょと上っていくのもいかにも慣れた感じでいい(笑)

塵の「世界中に自分しかいなくても、ピアノがあったらその前に座る(くらいピアノが好き)」に、私ならそれこそ最も弾きたい状況じゃん、そうじゃないのが才能ある人ということなのかと思う。この場面、「月がきれいだね」からの塵と亜夜の「月光」~「ペーパームーン」~「月の光」に終わるところで拍手をしたくなるも、私がするのは何か違う、彼らがすべきだな、と思っていたらまさにそうなる。それにしてもこんなに連弾の出てくる映画ってなく、私はピアノは音数が少ない方が好きなので聞くだけなら連弾はいいと思わないんだけども、この映画のそれは楽しく見た。それこそ「完璧」とは何かって話だろう。