蜜蜂と遠雷


原作は未読。小説の通りなのだろうか、松岡茉優演じる亜夜の二次予選の際のドレスがよかった、背中の筋肉の動きがありありと見えるのが素晴らしかった(しかも左側だけ!)。自分のは勿論他人のも、ピアノを弾いている時の裸の背中なんて見る機会がないから。

冒頭のエレベーターでの「あーちゃん?」(そんな呼び方をするなんて幼馴染に違いない)に「いつもポケットにショパン」を連想していたら、偶然か実際下敷きにしたかのような話だった。麻子ならぬ亜夜に寄って見れば、これは彼女が「世界が鳴っている」(=「いつもポケットにショパン」、尤も「蜜蜂と遠雷」は「音」を自然界のそれとしているようだが)に還る話なのだから。そこから更に「世界を鳴らす」に至る切っ掛けが回想シーンのセリフ一つというのには無理を感じたけれど(そもそも音楽とは何かを語る音楽映画はあまり好きじゃないので、この辺りには少々冷めてしまった)。

引いて見ればこれは、コンクールという場において音楽に関わる者達が影響を与え合いそれぞれが前進する話である。「敗北した」明石(松坂桃李)の作った曲が亜夜や塵(鈴鹿央士)を居ても立っても居られないほど揺り動かし、彼らの演奏が明石の気持ちを変える。塵は探していたものを見つける。「完璧」から脱しようとしていたマサルも亜夜や「刺客」小野寺(鹿賀丈史)によって思いがけないステージに踏み出す。そう考えたらマサルの学友ジェニファ(福島リラ)が亜夜に投げ付ける「私は脇目も振らず練習してきたのに/フェアじゃない」はその輪に入らなかった、入れなかった者の叫びであり、彼女にもいつか変化が訪れればいいと思う(…のは余計なお世話というやつだろうか)。

音楽に関わるのは「天才」ばかりではない。水辺での10周年コンサートに集う市民(不意に漂うドキュメンタリーの匂い、これは撮影参加者に対するこの映画からの音楽でのお礼だろう)、素晴らしきホールで働く人々、オーケストラの面々、皆が音楽を楽しんでいる様子が収められているのがいい。私の大好きな、弦楽器を上げ下ろしする時の木の器械の軋みのような音もよくよく聞けたし、管楽器の方では、リードを出して咥えるのをなめて演奏場面が始まるのものよかった。調律師達がリハーサルが終わるとステージに階段を使わずうんとこしょと上っていくのもいかにも慣れた感じでいい(笑)

塵の「世界中に自分しかいなくても、ピアノがあったらその前に座る(くらいピアノが好き)」に、私ならそれこそ最も弾きたい状況じゃん、そうじゃないのが才能ある人ということなのかと思う。この場面、「月がきれいだね」からの塵と亜夜の「月光」~「ペーパームーン」~「月の光」に終わるところで拍手をしたくなるも、私がするのは何か違う、彼らがすべきだな、と思っていたらまさにそうなる。それにしてもこんなに連弾の出てくる映画ってなく、私はピアノは音数が少ない方が好きなので聞くだけなら連弾はいいと思わないんだけども、この映画のそれは楽しく見た。それこそ「完璧」とは何かって話だろう。