週末の記録


作ってもらった、喫茶店みたいな夕ご飯。
土曜の夜はナポリタン。買い置きしてある専用の極太パスタに白ワインをふったソースが合って美味。レタスとゆで卵のサラダは私が作った。
日曜の夜は私の大好きな鯖缶とトマト缶のカレー。この日も卵を担ったけど失敗した。

ビサイド・ボウイ ミック・ロンソンの軌跡


ドキュメンタリーは「The Jean Genie」とフレディ・マーキュリー追悼公演での「All The Young Dudes」という見慣れた映像に始まるが、その直前のボウイの「ミック・ロンソンは収録よりもライブの時の方がずっとワイルドだった」との語りでこれまでと少し違って受け取れる。その後もそういえばそうだなあということばかり、だってロンソンの仕事の結果はもう私達の体に染み付いているんだから。

The Whoの「Baba O'Riley」にのせて二人が出会った頃のロンドンが映し出されるのに、「DAVID BOWIE is」等で知るボウイの生い立ちを思う。彼がしつらえた舞台に「ミュージシャンなんて排出されない」ハルの長屋に育ち芝生を刈っていたロンソンがやってくる。「何かで名をあげたかった、故郷に戻りたくなかった」と語る彼とボウイとを比べてしまった。どちらがどうというんじゃない、異なる二人。

ボウイが注目を集める手段として同性愛を利用したと幾人かが述べるが、私もそう考えている。当時最先端の社会運動だったのかもと考えてもいる。映画が彼の「スパイダーズの三人は間違いなく当時最高のトリオだった」で締められるのに、そうだ、ボウイは常にその時々の最先端を作って渡り歩いてきたんだと改めて思った。面白いのは…あるいはそうだろうなと思わされるのは、彼が世間から攻撃されることを恐れつつ最先端を歩いていたのに対し、アンジーによればロンソンの方は「純朴ぶってただけで別に(非難されることを)気にしていなかった」というところ。

ジョー・エリオットの「(ボウイとの仕事において)ロンソンはプロデューサーとして名前を出されることはなかった」あたりでイアン・ハンターとのツーショットが挿入され、モット・ザ・フープルへの加入の話と至る。ミュージシャンとしてのロンソンの物語では、ハンターが初めて登場するのはモット・ザ・フープルが解散の危機に瀕した時である。以前読んだインタビュー記事によると彼はギタリストを探す必要に駆られるまで親友であるロンソンのステージを見たことがなかったそうだが、このドキュメンタリーからも、二人はどちらかが弱ると組んでいるような印象を受ける(「印象を与える」程度の描き方に留めているのがこの作品のよいところである)。それでもって楽しくかっこよく活動できるというのがいい。

話が晩年に及ぶと、とりわけ身近な人の話においては、ロンソンが金銭的に困窮していたことが強調される。「美容師と庭師のカップルで印税の知識もなかった」と自分達を語る妻のスージーの口からハンターは金払いがよかったとの言葉が聞けたのが面白かった、そうなんじゃないかと想像していたから。ロンソンが「イアンはいい奴でうまがあった」と言う理由にはそれも含まれているんだろう。それにしても彼女の「モリッシーは最後の上客」という言葉が心に残ること、お金、お金の話でもあった。

平日の記録


大きくてお腹いっぱいになったもの。
西銀座デパートのブリッヂで初めて注文したスノーホワイトパンケーキ。かかっているソースはヨーグルトと生クリームのミックスで、添えてあるはちみつと合うような合わないような。まあ味を求める店じゃない。
珈琲貴族では小腹というより中腹位が空いていたのでハーフサンドセットを頼んでみたら半分とは思えない量が来た上に、セットに選んだミルフィーユも超でかい。コーヒーをおかわりしてゆっくり食べた。

運び屋


(少々の「ネタバレ」あり)

素晴らしい作りの映画だったけれど、イーストウッドの悪癖「全ての女がイーストウッドに理不尽なまでに好意的」が枝葉だけじゃなく幹にまでやりたい放題に及んでおり見ていて辛かった。映画の最後に彼演じるアールが「自分は全てにおいて有罪だ」と認めても、実の娘、演じる実の娘!が「大丈夫、愛してる」の上に「(刑務所に行くことについて)居場所が分かるから安心」と自虐ギャグの幇助までしてくれるというラストにはさすがに白けてしまった。

白人男性の愚かさとある種の誠実さを自虐をこめて描く…のはいつものこととはいえ、周囲の人々の「駒」ぶりが強くて驚かされる。妻メアリー(ダイアン・ウィースト)が「今度は孫娘を泣かせるつもり?」と責める横で当の孫娘ジニー(タイッサ・ファーミガ)は泣いておらずむしろ祖母が騒いだことで泣いてしまうなんて描写には、現実によくある「女からの非難を都合のいい女に味方させて無効化しようとする」やり口を思い出し不快になった。「中西部で一番のポークサンド」の後の一幕だって、私があの二人ならむかついて終わりだよ(笑)

主人公アールの彼なりの誠実さはインターネットを悪しきものと非難するところに表れている。新しいものがどうこうというんじゃなく、「今この時に出来ることは一つしかない」という不便をそうした技術で解消するのは不正だというわけだ。彼は常に「一つ」を選択しその報いを受けてきたのだから(ただしブラッドリー・クーパー演じるコリンが機器を有効に利用している描写からして、自身の時代は終わったのだとも言っている)。時間をテーマにしているという意味では、前作「15時17分、パリ行き」に通じるところもある。胸躍るヘリの登場シーンからの一幕がコリンの「時が来た」で締められるところで、クーパーが出演した意味を理解した。

死を前にした妻メアリーの「なぜか分からないけれど嬉しい」というセリフが妙に心に残った。あれは彼が他の全てを投げ打ってきたと、「幸せだった十年」ゆえに感じ取れたということに私には思われた。

マイ・ブックショップ


この映画が描いているのは、人が滅ぼす者と滅ぼされる者とに分かれているこの世において、自らが滅ぼされる側であっても立ち向かう者の崇高さと、出来るだけ楽をしようと滅ぼす側につく者の有害さである。彼らを分かつものは勇気を持っているか否かである。

オープニング、最後に誰のものだか明かされる声(ジュリー・クリスティ)が「読書とは本という家の中に住むこと」と語り始める。これはラストの「書店に孤独はない」に繋がっているのだが、違う意味もある。読書とは他者の家を訪ねること、すなわち自分の家から出ることだと言っているのだ。あの町には自分の家から決して出ようとしない人々と、家から出ることの意味を知っていればこそ何十年も出なかったたった一人の勇者が住んでいた。そこへ「GRACE号」でフローレンス(エミリー・モーティマー)がやって来た。

フローレンスとエドモンド(ビル・ナイ)の、彼の自宅と海辺でのシーンの素晴らしいこと。年上の経験者に助言を求める彼女と、後に「歴史があるから素晴らしいとは限らない、私もあなたもつまらない年寄りだ」とガマート夫人(パトリシア・クラークソン)に言ってのける彼との間に互いに流れる尊敬の念。「あのような人間のためにこんなふうになった」彼の勇気が、彼女の何をも恐れない心に触れ息を吹き返す。力を尽くすことを厭わないのが二人の共通点であり、「そんなことをしたら死んでしまう」とそれをしないマイロ(ジェームズ・ランス)は恋人に捨てられる。

店に現れたクリスティーンにフローレンスが「あなたは小さすぎる」と言うと少女は「甘く見ないで」と返す。後に彼女がストーブについて「灯油を両方に入れたら危険だけど」と言われた時、(「華氏451度」の件もあり)ふとある不安が頭を過ったが杞憂だった。私も彼女を甘く見ていたのだと気付かされた。同時にこれは危険を孕むものの扱い方についてのエピソードにも思われた。クリスティーンがストーブを掴む手には夫人に立ち向かうことを決意したエドモンドの握り拳を思い、滅ぼされる者として共闘する私達は時に互いの拳を開いて手を繋ぐことが必要なのだと考えた。フローレンスがそうしたように。

THE GUILTY ギルティ


機器を装着した主人公アスガー(ヤコブ・セーダーグレン)の耳のアップにふと「接地」という言葉が思い浮かぶ。彼と外部との唯一の繋がりでもって映画が始まる。やがて彼が明日裁判を控えていること…すなわち有罪と無罪の間に居ること、結婚指輪をしているが妻は「出て行った」こと、反対の手の薬指に怪我をしていること(これは私には彼が有罪と無罪の間に居ることの示唆に思われた)、一人の時にはテレビを見て気を紛らわせているかもしれないこと等が分かってくる。

私はこの類の仕事について無知だが、アスガーの言動は(少なくとも他の仕事に比べて、あるいはこの仕事において)大変に特殊で奇妙に思われた。職場とは確かにそれぞれがそれぞれの仕事をする場だが、あんな大事が起きているのに他の誰とも共有しないばかりか一人で背負いこもうとするのだから。終業間際に隣室へ移動し、あることが判明したところでブラインドを下げることでどんどん加速する彼の「一人」ぶりは、「ブルー・プラネット」という水族館の話題が出るあたりでピークに達する。電話の相手と共に深海に潜っているようだ。裁判を前にした彼はこうして身を潜める、有罪でも無罪でもない暗がりでの最後の休息とでも言うように。

ある地獄を体験し吹っ切れたアスガーが部屋を出ると、仕事のメンバーは昼勤から夜勤に変わっており、スクリーンのこちら側の私にも世界が変わって見える。冒頭、隣席の同僚への「今まで申し訳なかった」、ボスへの「(ドアを閉めてくれて)ありがとう」などが物を頼むことと引き換えに発せられているようでおかしな感じがしたものだが、ここへ来て初めて彼は頓着せず向かいの同僚に自分の代わりに電話を掛けてくれるよう依頼する。それから新たな世界で自分が有罪か無罪かはっきり宣言し、部屋を出て行く。皆が取り返しのつかないほど傷ついているのに、彼だけが何かすがすがしい映画であった。