平日の記録


食パン?に甘いものの組み合わせ。
バル墨繪3坪にてティータイムしか食べられない新メニューの小倉トーストを注文したら、想像と全然違うものが出てきた。上品すぎる(笑)
ザ クリーム オブ ザ クロップ コーヒーのこちらも新メニュー、コーヒークリームサンドはパンの厚さが新鮮でよかった。かなり好きな味わい。

天国でまた会おう


物語はモロッコ憲兵支部において一人の中年男性が手錠を掛けられるのに始まる。これもまた私の集めている「ある人物の語り」形式の映画だが、この男、アルベール(監督兼主演のアルベール・デュポンテル)が平凡で実直な印象なものだから、映画の作りもそうであることが減点にならない。その中で美しく悲しく数奇なのが、彼の物語をそうさせるのが、ただエドゥアール(ナウエル・ペレーズビスカヤートエ)なのだと思わせる。

しかし一方で、エドゥアールこそがいわば人間の原型であり、他の者達は生きるために何かを身に纏っているのではないかという気もしてくる。香水の匂いが分からないアルベールの鈍さ、バスター・キートンまがいの彼を始め家へ入れないポリーヌ(メラニー・ティエリー)の愚直さ、言うなれば白い服を着て「使用人に掃除をさせよう」なんて植民地へ向かうような人間でなければ生き延びられないのだとでも言うような。私なら何でもってこの世を生きていると言えるだろうか。

この物語が糾弾するのはいわゆるお上である。戦争と言う名の殺人が確かに行われる現場で殺人者を描いてみせるエドゥアールは以降ずっと死への傾斜の途中に自らあるように見える。最高潮に達するのが「戦争を始めた罪」「戦争をやめさせなかった罪」「戦争を利用した罪」で奴らをシャンパンの栓とパイのクリームで「死刑にする」場面。あれは、あれ以上のことは出来ないという描写なのだから。エドゥアールが「奴ら」の末席とした「パパ」は結局は権力を行使するクズでもあるが(娘婿に「汚い仕事」をさせていたようだし)そんな人間でも人を真に愛する。彼のジャンプはその矛盾からの逃亡に思われた。

メラニー・ティエリーがメイド役の本作の舞台が第一次大戦後、デュラスを演じた「あなたはまだ帰ってこない」が第二次大戦中。どちらにも駅のデスクに帰還兵が殺到する場面がある。前者は役所の手続き、後者はデュラス達による家族のための兵士の名の収集と状況は異なるけれども。通りすがりのふりをして声をかけるアルベールと柵のこちら側のポリーヌの場面にはふと、後の時代の私達にはどうしたってこれは大きな戦争と戦争の間の束の間の静けさに見えてしまうということを思った。

物語の終わり、プラデル(ローラン・ラフィット)が殺した兵士の名前は?問われたアルベールが即答するのが妙に心に残った。そもそも話の始めにだってすぐ口から出てきているんだろうけど、戦地で殺された者の名前や人となりが誰かの頭にこびりついている、それがとても重たいことに思われた。

週末の記録


同居人の得意料理のスコッチエッグ、今回は燻製卵と挽肉の方にはプルコギのたれを使ったもの。何もつけずに葉っぱにくるんで食べるのがいい。
雛祭りの日の夕食はオレンジページを参考にしたというローストビーフをのせたちらし寿司に、ワカサギのフライ、ひじきの煮物。ローストビーフとグリルドパプリカを重ねて食べるととても美味しい。私の担当は錦糸卵だったんだけど、いつものことながら分厚くてご飯に全然馴染まず。


この時季恒例の駒形どぜうでのお昼。初めて江戸風玉子焼きを頼んでみたら美味しかった。
大行列を横目に見ている添好運で、持ち帰り用のベイクドチャーシューパオを買ってみた。メロンパンめいたパンの中にチャーシューという組み合わせって、ホットクに砂糖をつけて食べるのに似ている。


雨の昼下がり、いつも大混雑の上野公園内のスターバックスにてラテとSAKURAFULドーナツ。ストーブなしでももう十分、大丈夫。
所用の後は御徒町六曜館で休憩。ここのコーヒーは美味しい。

サタデーナイト・チャーチ


物語は主人公ユリシーズ(ルカ・カイン)の父親の死に始まる。母親と彼と弟、三人の家族は「おばあちゃんちに引っ越」さなくても済むよう、叔母に子どもの世話を頼んで新生活に乗り出す。母親が夜勤に出掛けるまであと20分の食卓での会話、叔母による兄だけへの手伝いの命令、栄養豊かな食事やあたたかい寝床が用意されていてもここにあるのはだた役割、機能としての人間だけで、見ていて息が詰まりそうになる。

見ながら「ハイスクール・ミュージカル」や「キャンプ・ロック」の類を思い出すほどおっとりしている…というか複雑さが無い作品だけども、本作の肝は違うところにある。年少者にとって一番辛いのは居場所が無いことであり、そういう子や若者に「誰かがいる」と訴えるのが目的なのである。この映画で一番リアルなのは自分を待つ家族のいるユリシーズが足元に札を投げられても体を売ろうとするあの瞬間で、母親が知ったら全てを投げ打って「助け」に飛んでくるだろう、そんな背景があっても辛い時には辛いのだという、その一点でスクリーンのこちら側の助けるべき誰かに寄り添っているのだ。

冒頭自身を否定されたユリシーズは部屋に逃げ込み閉じこもるが、思い立って以前広告を見かけた店へ出かける。買い物客の後を着いて川辺へ行き新たな世界を知る。いったん帰ろうとするが家に戻る地下鉄への階段を見て引き返す。終盤支援プログラム「サタデーナイト・チャーチ」のジョーン(ケイト・ボーンスタイン)が彼に「何があったか話して、そのために私がいる」と声を掛けるが、これがまさにこの映画の訴えたいこと。苦しかったら外においでと言っているのだ。

平日の記録


タリーズで甘いもの。
クラシックパンケーキ アップルモンブランは確かにクラシック、というのはパンケーキとホットケーキのいいとこどりという感じの味わいだから。
新商品のユニコーンロールはバナナカスタードとストロベリークリームが巻き込まれており「やさしい味」だった。


神楽坂にて。
むかーしから行っている喫茶店コパンで神楽坂シュークリームを購入。いつ見てもでかい。
落語会の中入用に初めて買ってみた大野牛肉店のポークメンチは、生姜と刻みキャベツが効いており生姜焼きプレートを食べてるみたいだった(笑)

ビール・ストリートの恋人たち


既に多くを背負う人々が登場するタイプの映画もあるが、これは一から人々を語っていくタイプの映画である。当たり前だと言われそうだけど、これをきちんとやっている映画ってそう多くない。私にはこのやり方は非常に小説的に感じられる。
一つの暗雲あるいは穴はあれど暖かく愛し合う家族の狭い居間での一幕に始まる物語は、そこに別の家族が訪れることにより、それぞれが外に出ることにより、段階的に彼らが生きる、避け得ない世界を描いてゆく。翻って最初の穴が何によるものか分かってくる。「彼らが裁くのは我々の権利そのものである」。

「なぜ同性愛なのか」に対抗して敢えて言うなら、この物語では異性愛であることに意味がある。悪人は弱者の属性によって悪事の種類を変えるから、それによって弱者の結束に亀裂が生じることがあるから。同じ人種でも男女で受ける抑圧の種類が異なり、時に溝ができる。ファニー(ステファン・ジェームズ)が「離れるのは不安」と漏らすのはそのことを肌で感じているからだ。二人はデイヴ・フランコ演じるユダヤ人の家主に「普通」に扱われ、ほっとしたのかふと離れてしまい、エド・スクレイン演じる警官から酷い目に遭わされる。愛はそれに耐える。ティッシュ(キキ・レイン)の「子どもはあの日にできた」からしても、この物語は抑圧による分断に対抗できるのは愛とセックスとしていると分かる。
もちろん通じる属性間でもどのようなサバイバーであるかで溝が生じる。あの女性は本当にレイプされたのだろうかという疑念、「あんたはレイプされたことないだろ」という叫び、大親友の間柄ともなれば「ありがたいがお前は地獄を知らない」なんて言葉となる。

「おれが好きか、何が言いたいかっていうと、おれとのmake loveが好きか」とのファニーのセリフからも、この物語では愛あるところにセックスが、セックスあるところに愛があるということが分かる。初めてのセックスにおいて、レコードを掛けたその傍らで静かにベルトを外しズボンを脱ぎ歩み寄ってくる、あの優しさと勇気よ。あんな美しい金具の音を初めて聞いた。
一方で「heartの弱い」ファニーの母親は愛を、セックスを否定し、そのことにより自分や周囲を傷つける。神への愛にかまけ息子の弁護士にも会わない。また十字架を提げていてもレイプされる者もいる(言ったら当たり前だ、そんなの)。このような物語のラストで、「パパにご加護を」の後にしばらく手を離さない二人の胸中には何があるのか。そもそもなぜ食前の祈りの際に彼らは手を繋ぐのか、実は私は知らない。