3人のアンヌ



ホン・サンス初体験。今まで(というか昨年)見なかったのは、一度に複数上映されたのでどれにすればいいか分からなかったのと、予告編から好みじゃなさそうと思ったから。
本作を観終わって街に出たら、少しだけ、世界が変わったような、自分が一皮剥けて敏感になったような、それが長く続いて欲しいような感じがした。これって稀有なことだ。


オープニング、母と娘がテラスのテーブルで向かい合っている。何てことない会話の途中、突然カメラが大胆に寄るのに驚く。いわゆる「手持ちカメラ」のぐらつきは「その場に居る感覚」を呼び起こす(んだろう)けど、カメラの動きを逐一感じるというのはもっと違った、自分が「映画監督」(もしくは「カメラマン」)になったような、あるいは透明人間になって観察しているような、面白い感じを受ける。
この一幕、少女はなぜあんなお皿(深皿)でケーキを食べているのか?と気になってしょうがなかった。「そういう人」ってことなのか、映画の「都合」的に、その後の場面で母親がフォークでケーキをぐちゃぐちゃにしてもこぼれないからか。そんなことを考えてるうちに、いつだって映画はどんどん進んでしまうのだった。


少女はノートに3つの物語を書き記す。韓国の海辺の観光地(といってもささやかな「ライトハウス」以外、見るものは無い)にやってきた、様々なアンヌのひとときの物語。それが「映像」となる。ヒロインはいずれもイザベル・ユベール。
「物語」の作り手を置くことによって生まれる、ある種の無責任さがありがたい。私は現実世界は「物語」に影響を受けると思っているから、その内容には敏感になってしまうけど、これなら「物語」中で何が起こっても、所詮人の手によるものと納得できる(笑)しかし同時に、それらに心揺さぶられることで、「物語」と私達とは分かちがたいものであるとも思った。


浜辺で割れた焼酎の瓶(アップになる、後に違う「意味」が分かる)を見つけた現地の女が「こういうことをする人は、他者との接し方を知らないのだ」というようなことを英語で言う。この時ふと、フランス人と韓国人との間で交わされる英語での会話は否応なくシンプルなものになる、一つの単語にそれぞれの人がそれぞれの意味を込め、それぞれの意味を受け取る、それがいいなと思った。
beautifulもniceもjustも、様々な場面で出てくる。ライフガードが異なる「物語」において「I protect you!」と口にするのもそう。シンプルな言葉の意味の「広さ」が、人々によって作られる「世界」の揺らぎの可能性を表している。また逆に、もっと「細かな」言葉を使っていたって、世界は不安定なものじゃないかとも気付く。


アンヌは手の平でそうと確認して傘を差すが、雨は降っていない。アンヌとライフガードは焼酎を瓶で飲み交わすが、中身は減っていない。波の音で会話が聞こえない。テントの中でのアンヌとライフガードの会話がよく聞こえる場面なんて、はっきり言って「異様」だ。テントの入口から彼女の顔だけが見えるのも含めて、なんだかいかがわしく面白い。
波打ち際で男女がキスする時、「この映画」基準でも「演技」っぽいから、これもまたアンヌの夢なのかと思う、でも私達だって常に演技しているじゃないかと思う、そんなことを考えているうち、波と音楽の高まりに、そこにはただキスする男女が居るのみ、それを見る第三者、そして一つの物語が終わる。これにはぐっときた。


先日これも初めて劇場で観た黒沢清の作品もそうだったけど、「映画」ならではの遊びのある映画って、「映画」を観ている!と常に意識するはめになり、集中できないという面もある。だからこういう映画は私にとって、(「日常」使いじゃない)「特別」なものかな。