ラブリーボーン


1973年12月6日、14歳のスージー・サーモンは殺された。


面白い話だと思った。殺された主人公が「霊」となり犯人逮捕のためにあれこれするのかと思っていたら、そうではなく、こちらとあちらの「中間」で家族をただ見守り、成長してあちらへ向かう話だった。
「中間」で出逢う少女の「もっと前向きにならなきゃ」というアドバイスには、死んでからもそんなことを考えるという発想を新鮮に感じた。



ただ、スージーが体験した世界を表す映像が自分の苦手な類のもので、少し辛かった。木の葉が散って鳥になったり、子どもがボールや笛(!)を手に集まってくる…といったセンスがどうにもダメ。湖面に浮かぶ恋人の顔に衝撃を受け、緑のマル(プチ地球みたいなやつ)が出てきた所で同居人が「auの宣伝だよ」と言うので、こらえきれず吹き出してしまった。
あれは「スージーが感知している世界」なわけだけど、映画の作り手は、14歳の少女のセンスを想像してああしたのか、それとも違う視点で作ったのか、どうなんだろう?恋人とのやりとりで「you are beautiful」というのが決めゼリフになってるのも、唐突な感じ。どちらも原作によるのかな?
例えば昨年公開の「パッセンジャーズ」も、こちらとあちらの「中間」を描いた話だったけど、映画として面白いかどうかは別として、ああいう手法のほうが好きだ。それじゃあピーター・ジャクソンが作る意味ないけど…
唯一、クライマックスで窓越しにスージーが迫ってくるシーンにはぐっときた。なぜだろう?


スージー役のシアーシャ・ローナンもよかったけど(またドールハウスとの共演…笑)、犯人探しに執念を燃やす父親を演じたマーク・ウォルバーグが最高。ファンの贔屓目もあるけど、登場時はマイク・マイヤーズかと思ったけど(笑)ボトルシップを作る顔に見惚れ、その後の姿は全てしびれた。当時の靴やスーツも似合ってた。眠る息子にキスしたその手でバットを取り出すシーンがいい。
派手なお婆ちゃんのスーザン・サランドンは一人だけコメディ担当という感じで、家族との絡みがなかったので勿体なく思った。彼女に限らず警官やスージーの同級生?など、皆がばらばらで関わり合わないのが残念。
犯人役のスタンリー・トゥッチは、下膨れ具合がいい。そろそろ次を…と、布を広げて斧やら何やらを手早く並べて巻いていくシーンが印象的。職業に関する描写はなかったけど、「罠」を設計・建設して犯罪に使用する、というのも面白い。


自分の性的な「価値」(そのレベルではなく、そういうものがあるということ)を体で実感したら最後、どれだけ幸せの要素があっても、不幸がゼロの状態にはなれないと私は思っている。しかしその不幸を消化することはできる。そのことは自分に何の影響も及ぼさないのだという、ある真実に気付けばいいのだ。そして、それらの過程は、不幸を感じる肉体あってこそ成し得るものなのだ。
ナンセンスな物言いだけど(←「死後の世界」を前提としてるから)、スージーが天上からいくら家族の、人々の営みを見ても、そうした類の変化、成長をすることはない。そんなことを考えながら観ていた。