インスタント・ファミリー 本当の家族見つけました


映画は真っ暗なところ(それは「私」とも取れる)へピート(マーク・ウォルバーグ)がドアを開け足を踏み入れ世界が明るくなるのに始まる。ポール・マッカートニーが「お願いだからドアを開けて、みんなを入れて」と歌うウイングスの「Let 'em In」が程無く流れる時、彼は再度ドアを開ける。映画に養親・養子が出てくるのは当たり前になったけれど、「パパVS新しいパパ」シリーズのショーン・アンダース監督が自身の里親経験を元に作ったという本作はそれ以前の、法的には家族じゃない家族のたどるプロセスを描いている。

始めのうち、エリー(ローズ・バーン)の妹の夫を皮切りに「I'm kidding」「just a joke」といった言葉が耳につく。思ってもいないことは言わないと言うから、これらの描写は、人は衝動を冗談として消費するだけで本当に言ったりやったりすることなく生きているのだということの表れかもしれない。作中の人々が実際の行動に出るうち、そうした言葉は聞かれなくなる。自分を振り返るに、私はこの類のことは全く口にしない。それは日々が「マンネリじゃない」からなのか、衝動が無いほど頭が固まっているからなのか。

ピートとエリーがのぞいてみる里親機関のウェブサイト、説明会、8週間の講習、養子縁組フェアと物事が進んでいく。そうして将来の家族と出会い、知り合い、舞い上ったり沈み込んだり。本作はいかにも「映画らしい」映画だがこうした描写は実にリアルだ。当初ピートは里親になることを自分達の仕事になぞらえ「子どもの色を塗り直して有害なものを取り除く」などと捉えているが、そんなふうには出来ないこと、また犬の保護とも違うことを分かっていく。遊園地での「だめなのは俺がだめだと言ってるから」の際、おそらく二人はあれっ私たち何やってるんだろうと思ったはずである。それが思わずの「だめなんだ」となる。

里親機関の目的は「家族関係の維持」である、とにかく「親の役割を担う」ことに尽きると二人を諭す、オクタヴィア・スペンサーとティグ・ノタロ演じる支援グループのスタッフの描写が素晴らしい。いい映画の例に漏れず本作でも、子どもの周りの大人達が正しく仕事をしている(そうでない者は罰せられる)。何度も描かれるグループの集まりにおいて、他の人の苦労話に思わず笑ってしまい謝るエリーに二人いわく「ユーモアをもつことは大切」「そうしないと乗り越えられない」。その通りに映画自体が笑いにあふれており、何かしようという勇気が湧いてくる。

里親集会で「一時的な蜜月期」と笑われたピートとエリーは「一時的じゃない」と言い返すが、「一時的」があるのが関係というものなのだ。冒頭の説明会にゲストとして呼ばれた家族のその後のように。あのエピソードはとても効いていた。

さよなら、退屈なレオニー


冒頭の、代父母をも呼ばれての卒業祝いシーンにふと、子どもの頃の「周囲の大人達が私の話ばかりする」時の苛立ちを思い出した(勿論それは「贅沢」とも言えると今は分かっているのだけれども)。レストランの椅子に沈み込んで小さくなったレオニー(カレル・トレンブレイ)はまるで「不思議の国のアリス」の縮んだアリスのようだが、「一服」して、更にバスを捕まえて元の大きさに戻る(少なくともダイナーでは彼女は同級生の皆と同じ大きさである)。

これはまず移動の映画、距離というよりその心意気の映画であって、オープニングで何かを待っているようにも見えたレオニーが歩き出し、あることを知って自転車を漕ぎ、最後には再度、真にバスを捕まえる。大人達は地下から地上に出る者もあればいつもと同じ往復を繰り返す者がいる。そう考えた時、最初に道に立っている彼女は地図に刺されたピンみたいだとも思う。そういうピンの数々を優しく見ているような映画だ。

「生まれた時からここに住んでる」「知らなかった」のやりとりに、振り返ればスティーヴ(ピエール=リュック・ブリアン)こそこの町の蛍のようだと思う。面白いのはレオニーと彼の間に現実にはあり得ない、映画ならではの言語によらないコミュニケーションが成り立っているところ。光の下に連れ出されて演奏したスティーヴがその高揚に同じ方向ではなくギターでもなく初めて隣の少女を見ると、レオニーは静かに拒否する。卒業を控えた彼女がライブに誘うことであなたもどこかへ行かないかと問うと、スティーヴは動かないバイクにまたがり意志を表明し、レオニーは頬を、心を寄せる。

「愛がなんだ」の主人公は友人に「何があってもしっかり食べるところが長所」と言われていたものだけれど、こちらのレオニーもよく食べる。といってもきちんとした食事ではなく大抵は一人でせかせか何かをつまんでいるのに過ぎないが、ネガティブな感じがないのがいい。作中一度だけ、彼女とスティーヴがとある場所で二人揃ってチキンとポテトを食べる姿には、なぜかふと「バンド」という言葉が浮かんだ。すごく変なことを言うようだけど、あれが彼のバンドじゃないかと。

小さな同志


EUフィルムデーズ2019にて観賞。2018年エストニア、モーニカ・シーメッツ監督作品。

映画の最後に「本作はレーロの自伝に基づいている」「スターリン時代に苦しんだ全ての家族に捧げる」との文章と親子三人の写真が出る。少女の母はKGB教育庁下の学校においてエストニア国歌を歌ったなどの罪で捕らえられた。

祖父の「エストニア人の苦悩などスターリンは気にしていない、食べて飲めることを喜ぼう、アメリカかヨーロッパが助けてくれるのを待とう」なんてセリフに「僕たちは希望という名の列車に乗った」と比べてしまった。こちらは列車を待つしかない身の物語。となればふりでも何でも順応が求められ、そこからの回復もまた厳しい道のりだろう。

大木の元で母と娘が語らうのに始まる本作には、エストニアの美しい自然がよく捉えられている。大仰なものじゃない、身近な木や草、動物達。加えてお出掛けの際に自分で選んで身に着ける洋服やアクセサリー、両親を待ってテーブルに飾る花、一人で遊ぶ動くおもちゃ、それらは大人達の言動に惑うレーロが生命の尊さや愛らしさといったシンプルな美をよすがとしていることの表れに思われた。

だって、「私のクマ」を取り返しただけなのに怒られる、植木鉢を落として怒られたのに自分をそうさせた当の黒服の男達は家の中を土の付いた靴で汚すのだから。父に「同志というのは昔の貴族みたいに立派な人だ」と聞いたから私は同志だと口にすると、伯母達に「子どものうちから共産党員なの」とあきれられるのだから。何が何だか分からない。

余裕のない父はレーロに歩調を合わせることができない。追い詰められている時、人は子ども、あるいは相手と自分との異なるステージの間を知性や思いやりで繋ぐことができない。だから祖父の誕生パーティにおいて、彼女は皆が囲むテーブルではなくその下でお茶を飲むのだ(「おばあちゃんは脚の血管が浮き出てて怖い」なんて言うのもそう、ステージが違うからなのだ。誰かが何か言えば気持ちが変わるかもしれないのに)。

今世紀に入って目にすることも少なくなった女の職場としての美容院という舞台が本作では見られる。ロシア国民であることのみを楯に一度寝た男の妻であるレーロの伯母に金をせびりに来るあの女、一体彼女に生計を立てる手立てがあったろうかと考えた。

平日の記録


暑い日の甘いもの。
上島珈琲店のトラディショナルWアイスカフェには、アイスコーヒーにバニラアイスと生クリームがトッピングされている。カップからして冷たくアイスクリームが全然溶けないのが、ありがたくも食べづらくもあり(笑)
通りすがりにポスターに惹かれて買ったのはマクドナルドのワッフルコーン全部のせ。チョコレートソースがあらかじめ掛けられ冷やされ固まっているので写真と違うけど美味しかった。

スノー・ロワイヤル


これは同監督の元作品「ファイティング・ダディ 怒りの除雪車」の圧勝でしょう。つまびかれる弦楽器の旋律、ステラン・スカルスガルドのスピーチ帰りの何だかんだ言ってのにんまり顔、暴力行為の後の息のあがった姿、「伯爵」の髪に調度、ブルーノ・ガンツの亀かしなびた梅干しかという容貌で命令するしゃがれ声、銃を手にするワンカット、ほとんど完全コピーなだけにそういうところに映画があるんだと思わされた。

遺体安置所での「キコキコ」の時間をたっぷり取っているところにあれっと思う。自国でなら観客が「分かる」までの時間を読めるが外では不明なので念押ししているといった感じ。主人公ネルソン・コックスマン(リーアム・ニーソン)の「文明への道を作る」仕事や初めての殺人を前にどんどん下っていくエレベーターなどの比喩とも取れる描写も気遣いなのだろうか。オリジナルで多々見られた「温暖な福祉国家はない、天気がよけりゃバナナで食いつなげる」のような自虐ギャグも窺えない。

妻グレース(ローラ・ダーン)が出て行ったことにつき兄ブロック(ウィリアム・フォーサイス)は「女は潮時を知っている」と言うが、これはそういう話、男は潮時を知らないという話である。あの二人もさっさとダブリンに行っていればよかったのだ。男達が潮時を逃すのは忠誠心、と口では言いつつ金のためであり、本作で付け足された、ヴァイキング(トム・ベイトマン)の部下が賭けに勝って喜んでいるところへの息子の「(故郷のチームを応援すると言っていたのに)忠誠心はどうしたの」なんてセリフや、薄給のメイドの足元を見た「20ドル」などでそのことがより明確になっている。

オリジナルからは女達がいわば血がかからないよう隔離されている印象を受けたものだけど、本作では更に夫が元妻を殴れない、クソとも言えない世界になっている。作り手がそれを封じて女を「守る」ことが現実社会に溢れる暴力から女を守ることに繋がると私は思わないけれども。女性警官キンバリー(エイミー・ロッサム)が残虐な事件に張り切るのは、女は血なんて怖くはないが自分が馬鹿な目を見ることはしないという訴えなのだろうか(あるいは「ダーティハリー」と揶揄されるのがオリジナルでは主人公であることから、こちらではその精神の幾らかが彼女に託されているのかもしれない)。

オリジナルのセルビア人の先住民への置き換えはうまくいっており、「reservation」の場面は笑えた(笑えるようになっていた)。ただし主人公が「あんたみたいな優秀な移民はもう立派なノルウェー人だよ」と近所の人に声を掛けられたり、日系デンマーク人役のデヴィッド・サクライが「チャイナマン」と呼ばれたりしているオリジナルの方がそりゃあ面白かったけれども。

週末の記録


週末始めに作ってもらったお寿司。グリルドパプリカとローストビーフと玉子焼き。ローストビーフを試しにロース肉で作ってみたらいまいち、と謝っていたけれど普通に美味しかった。玉子焼きには韓国海苔


今年始めに発売されたコメダ珈琲店のミニチュアコレクション、町でガシャポン?を目にすると気にしていたものだけど全然見つけられなかったのを、同居人がamazonで一揃い買ってくれた。可愛い☆けど豆菓子が無いのが残念…(笑)

クイーン・オブ・アイルランド


EUフィルムデーズ2019にて観賞。2015年アイルランド、コナー・ホーガン監督作品。

同性婚を合法とするか否かを問う国民投票で勝利を収めた姿が始めとクライマックスに置かれていることで、これが平等を手にする(文字通り「手にする」)ために戦わなければならない者達の話だとはっきり分かる。知られた「パンティ」ではなくローリー・オニールとして戸別訪問する様子に「もしも負けたらダメージは大きい、なぜ私達の方だけ、あなた達と同じ権利をくださいと頼まなきゃならないのか」とナレーションがかぶるが本当にそうだ。反対派へ言いたいことはと記者に問われた彼女は「彼らはわけもなく恐怖を覚えているだけ」と口にするが、反対七万票、と聞くだけでもそうジャッジする人がいるというダメージを受けるじゃないか。

しかしこの映画にはパワーが満ちている。ドラァグについての映画は多々あれど、作中のパンティを見ていると私が「女装」をしてみたくなる。誰だかがsissyであることは強いんだと思わせてくれたと言っていたけれど、女の記号の数々がとても力強いものに感じられる。冒頭楽屋の彼女がこちらに語りかけてくるという作られまくった演出にふと「景気がいい」という言葉が脳裏に浮かんだものだけど確かに彼女ったらそうで、ローリーは「バブル全盛期の東京」に出てきて人生の二章目を始めるのだった。95年にダブリンに戻ると同性愛は犯罪でなくなっておりゲイシーンは盛り上がっていたとのこと。私が東京に出た頃だ。

「私の仕事ははみだし者としてものを言うこと」。本作ではパンティがものを言う姿をしかと見ることができる。「(町で物や暴言を投げつけられ)傷つきはしないけれども抑圧を感じる、私にいけないところがあるんじゃないかと考える、こんな思いをさせる皆を少し嫌いになる、でも今、ここの皆は好きよ、話を聞いてくれたから」とは冗談めかしているけれどそういうものかもしれない、ものを言う、話を聞くって。それにしても「ゲイじゃないのにゲイについてあれこれ言うな、ホモフォビアの被害を受けていないのにその何たるかを説教するな」とは私達がいつも思ってることじゃないか。女のことを男が決めている。

この映画におけるいわば真のラストは、「small townに育ったゲイにしか分からないことがある」(と聞いたらどうしても「Smalltown Boy」が流れた「BPM」を思い出してしまう)と言うパンティが(当初逡巡しながらも)生まれ故郷で開いたショーに集まり笑い合う人々の顔、顔、顔。皆の努力でここまで来た。少しずつがんばろう、と思う。