パリ、嘘つきな恋


この映画が面白いのは人々のやりとりに忌憚がないことによって成立しているところ。お国柄などと言うものではなく監督・脚本・主演のフランク・デュボスクのキャラクターだろう。これは自分の想像が及ばない領域において各人がいわば発揮する性質だから、「障害」というテーマによく合う。

いい歳をしたジョスラン(デュボスク)が20台の女性を「落と」そうとする気味悪さが彼の「スケートはきびしいな」へのジュリー(キャロライン・アングラード)の「若い人ばかりで行くから」で一応いなされるのに始まり、親友マックス(ジェラール・ダルモン)の「女として見てやらないなんて」、当のフロランス(アレクサンドラ・ラミー)の「女として見てくれる」等々性的に見られることが善であるという価値観も、ジュリーが「胸のことに気付かれなかったら却ってショック」の前に「あなたは私の胸を見ている」とはっきり言うことができる世界だからと何とか見過ごしてやることができる。

冒頭マックスとのやりとりで「セックスは無しかな」と言っていることから、ジョスランが求めているものはまさに「挑戦」であり女を「落とす」のは挿入行為のためではないと分かる。これはその向かうところが誰も傷つけず幸福な方に修正されるまでの話とも言える。腹蔵ない会話が物語を支えているがゆえ邦題にある「嘘つき」にも日本のそれとは異なる意味合いがあるはずだけども、冒頭ジュリーの脚に魅了された彼は自身の真実、地位と金を持っていることを明かす(が妹も姉も彼がヨーロッパのトップを務める会社を知らない)。「自分じゃない人物を演じる方がやりがいがある」なんて言いながら、彼の嘘なんて所詮そんなものなのだ。

この映画の実にシンプルな楽しさとして、アレクサンドラ・ラミー演じるフロランスの魅力がある。彼女に恋しない人間がいるだろうかというくらいの、言うなれば「文句ない美女」。出会いの瞬間、ジョスランが恋におちたと観客には分かるが彼には分からない。初めて二人で並んで話す時の彼の後ろ姿の首の皮のたるみ、しょぼい服、母親の車椅子、作中初めて老いて、すなわち年齢のままに見える。女の方の彼女は老いなど見せない、せいぜいが美しい老眼鏡姿だが、それでもまあ、年を取ることも自分自身なのだという映画ではある。

週末に「パリの家族たち」「パリ、嘘つきな恋」を見ての感想として、フランス人にとってアジア人とは見えている中で最も遠い存在なんだろうかというものもある。後者の広告のくだりには「バカ単純なやつ」という自虐が含まれているのか、そんな感じは受けなかったけれども。

週末の記録

週末の記録


真夏日となった土曜は身内の運動会へ。同居人が作ってくれたお弁当のおかずの中でも秩父の味噌漬けの豚肉を使ったカツが超美味しかった。その他は鮭に卵焼き、もやしのナムル、春菊の胡麻和え、人参とブロッコリーの芯のきんぴらなど。私は鯵と大葉、枝豆と桜海老のおにぎりを用意した。これも美味しかった。


アップルパイ専門店のRINGOを通りすがりに、この週末だけという「焼きたてカスタードベリーパイ」のいつもと違う色合いと匂いに釣られて購入。これもまた美味。

コレット


最後に「さすらいの女」の「今は幸せを求めている」という一文がコレットキーラ・ナイトレイ)の声で語られる。かつてミッシー(デニース・ゴフ)に「幸せな人なんている?」と返した彼女はもういない。コレットは自分で自分を真に舞台に立たせ、その名を皆に呼ばれる。晩年の本人の写真と共に「いい人生だ、もっと早く気付けばよかった」との言葉が紹介され映画が終わる。彼女が「気付く」までを映画化したのは、自分の人生を生きている姿よりもそれを取り戻す行為に焦点を当てた方がエンパワメントになるとしたのだろう。

オープニング、眠っているガブリエル(ナイトレイ)を起こしに来た母シド(フィオナ・ショウ)が「今日はウィリーが来る」と告げる表情が何とも微妙で、引っかかったまま見始める。「妻を演じたことはあっても母を演じたことはない」と言っていた彼女はそのずっと後年、キッチンでナイフを手に「早く別れなさい、彼はあなたの足を引っ張っている」と娘を諭す。娘の自分らしさを守り伸ばすことが自らの務めであること、どんな相手であろうと女は結婚したら自分らしさを失うおそれがあることを意識していたのだ。

本作ではコレットと夫ウィリー(ドミニク・ウェスト)の間のあれこれは史実からかなり変更されている。加えてミッシーいわくの「長くても手綱は手綱」だろうと、「校長」として妻を支配下に置く夫は魅力ある人物として描かれている(現代に生きる私からしたら一日で勘弁、だけれども)。それはひとえに、一緒にいて楽しかろうと才能を開花させてくれようと勿論自分を愛していようと、自分が自分らしくいられない相手とは関係を絶つべきだと訴えたいがためだと思われる。

冒頭から「『ラ・トスカ』はサラ・ベルナールはいいが感傷的すぎる」、ガブリエルの書いた「学校のクローディーヌ」に「女らしすぎる」と感想を述べ「男性読者が喜ぶ」よう手を加え、世に出してみれば「若い女性に売れている」と聞き驚くウィリーは、女に感情があること、それを共有する楽しさ、素晴らしさを知らない。だからコレットの書いた作品が夫の名前で出版されている問題につき、自ら「爆弾」と言っておきながらそれに火をつけるのが彼女自身だとはよもや考えないのだ。「あなたのために努力した自分を恥じる」と爆発したコレットの続くセリフで、ミッシーが「クローディーヌ」を誰が書いたか見抜いた理由、秘書がノートを燃やさなかった理由が分かる。それが彼女自身だからだ。

平日の記録


銀座でフルーツ。
丸福珈琲店ザ・パーラーにてホットケーキ 季節のフルーツ添え、メープルシロップと蜂蜜から後者を選択。「温かいうちにバターを」と言われたので焦ってのせたら少々失敗。味はよし。
イグジットメルサ内の富士山フルーツ銀座では「季節の新鮮フルーツカップ」…といってもお皿で出てきた。家庭のような盛り付けながらキウイなど美味。

僕たちは希望という名の列車に乗った



「人は皆、何らかの体制に従属している
 自分で物を考えて決める時だけ、そこから自由になる
 君達はそれをしたから、国家の敵だ」

ラース・クラウメ(監督・脚本)の前作「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」(2015)は記録映像中のフリッツ・バウアーが「若者は歴史や真実を知ってもそれを克服できる」と語りかけてくるのに始まったが、本作も同じことを訴えている。親の世代には無理でも若者には出来る、真実を踏まえて沈黙することも列車に乗ることも、と。それならばもういい大人の私には何が出来るかと考えると、同じことが出来るならそうすればいいし、寄り添うので精一杯ならそれでもいいんだと思う。

1950年代の東ドイツで大学進学クラスに通う市議会議長の息子クルト、労働者階級の一族内で初めて進学したテオ、赤色戦線戦士同盟の一員として死んだ父を誇りにしているエリックの三人は学校で歪んだ歴史教育をなされ親には何事かを隠されている(尤も後者の隠蔽は市民の心情的には「よく分かる」ことだが)。本作が描くのは彼らがそのことを乗り越えてゆく姿である。

印象的なのは少年らが酒場でソ連兵に豆を投げて笑いながら逃げたあげく捕まる場面。彼ら同様ソビエト侵攻時には子どもだったであろう若い兵士に「好きで来てるんじゃない、ナチスめ、ぶち殺してやりたかった」との言葉を投げつけられるのだ(これを受けるクルトは親衛隊の祖父を亡くしている)。

共産主義への従属を強いられる中、ハンガリー動乱の犠牲者に対する黙祷を報告した歴史教師をなだめる校長(フロリアン・ルーカス)を不思議に思っていたら、労働者階級の出の彼は体制下で初めてこのような職につき同じ階級の子らがつつがなく出世できるよう望んでいるのだった(テオに対する「君はブルジョアとは違う」とは実に本音だろう)。しかし彼も「止まっている」ことに変わりない。

三人は話の始めはふざけあったりじゃれあったりと仲がよいが、クルトが黙祷を提案した辺りから雲行きが怪しくなる。体制は「一致団結」に次から次へと攻撃を仕掛ける。「亡くなった人々を悼もう」というシンプルな人間愛の発露によってこんな揺れが生じるなんてやはり変だ。そもそも同じ教室に集う生徒達の事情が様々だなんてそんなことは当たり前であり、そのことで分断が引き起こされるのがおかしいのである。

「皆で西へ行こう」と父(ロナルト・ツェアフェルト)に言うも無視されたテオは「パパはなぜここに残るの」と母に尋ね「ここで生まれたから」と返される。パウルの「アナーキスト」の大叔父はソ連軍に爆撃された家に今も一人住む。ピアノに向かう姿に、彼にとっての湖だってピアノだってその先には一時の自由以外に何もないじゃないか、対して彼が送り出す若い彼らの列車には行き先があるじゃないかと考えた。

第216回 長崎寄席


開口一番(春風亭べん橋「狸の鯉」)
柳家喬太郎「錦の袈裟」
 (中入)
セ三味ストリート(津軽三味線パフォーマンス)
柳家喬太郎「仏壇叩き」
 (5/18・ひびきホール)

(写真は整理券購入後に毎度行く珈琲オリーブと帰宅後に作ってもらった今年初の冷やし中華、ローストビーフ添え!)

RBG 最強の85歳


「私達は入念に準備して懸命に戦った」「彼女から返ってきた原稿には多くの細かい修正がなされていた」とはルース・ベイダー・ギンズバーグと共に働いた女性達の言だが(友人によると「彼女ほど自己主張をしない人はいない」そうだが、その成果により周囲の人々のこうした言葉が大変な説得力を持つ)、ギンズバーグの弁は実があり端正で(私に崩れた英文が読めないからというのもあるけれど)、法廷での当時の音声に合わせて画面に字幕が出るのがとてもよかった。音声が残っていないのか他の人の口から語られるブッシュ対ゴアのものも面白かった。

ギンズバーグが在籍した1950年代のロースクールでは授業中に女子学生は指名されなかったのだそう。卒業生の女性は萎縮させないためと言われていたと語る(後のギンズバーグの「女を守るという名目で…」と被るじゃないか)。在籍時の彼女は「女性の名が貶められないよう緊張していた」、後にVMIに初めて入学を許可された女性も同じようなことを言っていたけれど、数が少ないとはそういうことなのだ。常に証明し続けなければならず「普通」では許されない。存在する意味を問われる。居ていいに決まっているのに。今だってそう、ケイト・マッキノンにちなんで言えば女だけの(監督は男だけど)「ゴーストバスターズ」は面白くなくちゃ許されないような雰囲気だったじゃないか。

ギンズバーグははっきりと言う、夫マーティンが自分を認め支えてくれたのは「彼が自身に満足しており私を脅威に感じなかったから」だと(つまりそうしない男性はそうでないからだというわけだ)。映画「ビリーブ(On the Basis of Sex)」でアーミー・ハマーが演じた彼の笑顔や冗談、それを見、聞くギンズバーグの表情を実際に味わえるのが楽しく、「私は数限りなく愚かなことを言ったがことごとくルースに無視された」というジョークにはなぜか涙が出てしまった。その後に挿入される彼の最後の手紙と、予告編にも使われている、冒頭でもう見せてくれる、彼女のトレーニングの様子を思い出し、それは死から遠ざかるための行為だから、ぐっときた。

女性であるため弁護士としての職を得られずロースクールで教鞭を取っていたことにつき、「ビリーブ」と本作とでは見たこちらが受ける感じが違う。教室での面白い場面が多々あった「ビリーブ」に対し本作では写真が一枚映し出されるだけだが、ジャニスの「Summertime」にのせて70年代の女性解放運動の様子が示された後にギンズバーグが求めたのはデモよりも自分の裁判のスキルを活かすことだったと語られることにより、自らができることとしてまず教鞭を取ったのだというより力強い印象を受ける。

ギンズバーグのやり方はアメリカ合衆国憲法を根拠に法律における差別をこまやかな言葉で訴えるというものである(尤も他の法律家もそうであって、解釈と言語化が違うのであろう)。冒頭「アメリカの女性の地位は」…何と言っていたっけ、最高裁判事に着いた際のスピーチで彼女自身も「私がここにいられるのはアメリカだから」という言い方をしていたけれど、世界が狭くなろうとやはりその国の人間にしか出来ないことが殆どなのだと思った。日本のことは日本にいる私達がやらなきゃならない。