スケート・キッチン


実在する女子だけのスケートクルー「スケート・キッチン」が題材と聞きドキュメンタリーだと思い込んでいたので全く違う内容にびっくりしつつ、いかにも劇映画らしい、つまり見慣れたストーリーの根底に人生は常にクライマックスなんだという感じが流れている気がして新鮮だった。私にとってはもとよりそうだけど、映画にそれを覚えることは多くないから。
昨年「アイ・アム・タレント」を見た際にスケーターにとって映像がいかに大事か初めて気付いたものだけど、本作でも改めて思わされた。こちらでは金銭的な問題が重要視されないので「プロ」が出てこないけれど(尤も私にはプロとそうでないのとの境目が分からないけれど)。

映画は公園で一人スケボーを放った主人公カミーユ(レイチェル・ヴィンゲルク、「スケート・キッチン」創立メンバー)が転倒して流血し少年達に「アレじゃないか」と言われ「生理じゃない」と返して婦人科に行き処置してもらうのに始まる。「子どもが産めなくなる」と母親に禁じられてもスケートはやめられない。思えば彼女がSNSで繋がっていたスケート・キッチンに実際に加わろうと思い立つ、これがきっかけであったと言える。自分と同じ女の子達と滑りたい。
初めて皆と街を滑った日の、Junior Senior「Move Your Feet」にのって女の子達がゆく先の鳩の飛び立つ様、カミーユのバナナを食べての仲間入り、このきらめきよ。その後の彼女の一人での滑りが全然違ってくるのも見ものだ。

部屋で、電車で、公園で、女の子達が集まってお喋りするシーンがどれも素晴らしい。「男にされたひどいこと」には、そういえば私もかつては生で共有していたものだと思い出した。あれって必要だ。
作中最初に皆で盛り上がる話題は生理について(婦人科の話から性器の確認にも至る)。これは主人公がタンポンを使うようになる話でもある。「使ってないの?」「脚を切断するはめになるって」とは確かにその危険もあろうが、何につけても快適のために知識を得て適切に行うことが大切だ。初めて使ってみた当日か翌日、公園で滑るカミーユの心地よさそうなこと。トイレで誤って一つ無駄にしてしまう様子には、数年以内にはタンポンそのものを手に取って誰かが誰かに使い方を教える場面が映画で見られるかもしれないと考えた。

パーティのシーンには、忘れていた、色んな人の体臭が混じった匂いを嗅いでいる時の気持ちを思い出した。セックスにまみれた場に馴染めず逃げ出したカミーユは、同じように一人でいるバイト仲間のデヴォン(ジェイデン・スミス)に恋をする。後の屋上での「ここに女は連れてこないけど君はいい」とは、振り返ると同じところにいる相手とはセックスしないという意味だと、つまり女と人間とを分けて見ているのだと分かるが(対してカミーユの恋は「気が合うと思ってた」)、だからといって、皆が嫌なやつだという彼のことを見ている私も責められない。
「女はキッチンにいろと言うなら滑ってるここが私のキッチン」だというクルーの名称が、男女が同じ場、カミーユが先頭で滑っているラストシーンに出るところからして、この映画の理想はあれなのかなと考えた。そう、私の理想だって同じだ、やれることは違っても。

ダンプリン


Netflixにて観賞。私が原作小説「恋するぷにちゃん」を読んだ時に泣いた箇所が冒頭の主人公ウィル(ダニエル・マクドナルド)のナレーションに持ってこられておりびっくりした。「ルーシーおばさんは自分抜きでどう生きるかを教えてくれた」。

映画は真っ赤なポンディアック・グランプリ…言及されないが原作ではその名は「ジョリーン」…を運転するルーシーおばさんとウィルが、ミスコンのためにジョギングする少女達の群れを尻目にドーナツショップへ向かうのに始まる。一方でママのロージージェニファー・アニストン)は他地域のミスコンにゲスト出演するのに、ドレスを纏って髪型を決めてティアラを着けると車が運転できないからと娘に送迎を頼む。ヒールや高い髪型は自分で道をゆくための装いじゃないというわけだ。
映画を見て改めて、これは母と叔母ができなかったことを下の世代の娘がする、何をって先例主義を壊すこと!という話だと思った。恐れたり間違ったりしながら、親友のエル(オデイア・ラッシュ)の言うように「革命の参加者は選べない」から仲間で思惑は様々だけれども団結して。

原作でさらりと書かれているコンテストが映画では実に「クライマックス」になっており、ウィルやミリーに本当に私が魅了された。ミスコンは魅力的な者を選ぶ場であり体型は関係ないということが証明され、同時にステージで素晴らしく輝いているウィルが「ルーシーおばさんなしで生き始めた」ことも伝わってきてぐっときた。
またステージでの彼女達が魅力的であることが、逆に、そういう場でなければ、つまり自分がその気でなければ、他人を魅了する必要などないのだとも教えてくれる(ただし原作には無い、ウィルがいかに気の利いて楽しい女の子であるかを表すバイト先での場面が冒頭に挿入されている)。普段の彼女がどうでもいいTシャツ姿(「クィア・アイ」に出たらタンに大改造されそう!笑・いや子どもには指南しないのかな?)なのがとても効いていると思った。

原作で好きだった、ママのドレスのファスナーが上がらないのをウィルがワニクリップでとめてやり、その恰好でステージに身じろぎせず立つ母親を見てなんて美しいんだ、それは欠点があるからなんだと思うくだりが、映画ではドラァグクイーンの衣装を纏う展開に変わっていた。これはママが伝統から解放される場面だから、あそこまで派手にやってもいい。アニストンのああいう姿はそれこそ珍しく楽しい。
加えて、原作と異なり「規則違反をした人はエスコート役になれない」という規則はない、と気付くのがウィル達ではなくママになっている。ミスコン参加に体重制限はない、といわば伝統の隙をついて、建前を現実にするために反乱を起こした娘達に(ウィルいわく「伝統そのもの」だった)ママがそんな提案をしてくれるという改変はよかった。あそこでママも仲間になったのだ。


Dolly Parton - Girl in the Movies (from the Dumplin' Original Motion Picture Soundtrack)

ザ・フォーリナー 復讐者


「タトゥーの入った背中」が男に過去があることを示す映画を近年重ねて見た。本作の冒頭女と裸で目覚めるのに登場するリアム(ピアース・ブロスナン)の腕にもタトゥーがあるが、彼は背中は見せない。タトゥーは今は北アイルランド副首相である彼がかつてIRAの「武闘派」だったことを表しているが、ここではそれは過去でなく、ある意味ではそのこと自体が描かれるからである。

テロリストからの電話を受ける記者のイアン(ルーファス・ジョーンズ)を始めとして、捜査に掛かる警察や会議に出るリアムと皆が自分の仕事をする中(これが問題なのだが、それが成果を挙げるか否かはさておき)、娘を殺されたクァン(ジャッキー・チェン)だけが仕事場である中華料理店を、おそらく戻れないとの覚悟で手放す。「権力者」であるリアムに目を付けた彼は「政府とテロリストは頭と尻尾だ」、要するに尻尾を差し出せと言う。この感覚はクァンの境遇ゆえのものなのだろうか?

クァンの来訪を警視長に告げる部下が「Chinese man…Chinaman」。クァンは会うなり英国市民であることを言う(はめになる)。後にリアムの秘書が彼の部下達に「リアムの言ったことじゃ足りないのよ」と、まるで目の前のクァンが自分達の言語を解さないかのように話すのが奇妙だったものだが、彼らには彼が見えないのだろう。特別視することと無視することとが同義である時はままある。

直接、あるいは間接的に人を殺しているサラもリアムの妻メアリーも、共に男を利用している。リアムの甥のショーンがメアリーの前で平気で重要事を口にしてしまうのに表れているように、それは相手の男が彼女らを「いない」ものとしているから出来ることであり、「Chinaman」に通じるところがある。

この日は「午前十時の映画祭」で久しぶりに「ジョーズ」を見て、ロバート・ショー演じるクイントは原爆を運んだという罪に追われる死人のようなところがあるなと思ったものだけれども、本作の終盤でリアムの前に現れる顔の無いクァンはその「罪」にも似て感じられた。私にはどうも、彼の中に西欧にとっての「アジア」が一緒くたになっているような気がした。

連休の記録その3


実家での夕食は同居人が作ってくれたローストビーフと冬瓜の煮物、大丸で買っていったメロの煮付けと冷製茶碗蒸し、それからうちのサラダや白和えなど。どれも美味。
朝食には母が凝っているという専門店の食パンを切ってもらい、前日のローストビーフを挟んで食べた。


デザートにとエスカで買った、覚王山に本店があるというお店の金鯱プリンと覚王山プリン。夕食の量が多くて私しか食べなかったけど(笑)
名古屋に行ったのにきしめんが食べられなかったからと、東京に戻ってスーパーに寄って帰って5分で同居人が冷やしきしめんを用意してくれた。カニかまと味付薄揚げとネギにはばのりで超満足。


大井川鐵道のSLに乗る。数年前にも往復した新金谷~千頭間。天気に恵まれすぎなほど恵まれて、風も気持ちよく楽しかった。


行きに金谷駅で買った駅弁「大井川ふるさと弁当」は大ぶりのおにぎり二つがほぼメイン。苦手な岩魚の甘露煮もたまにはいい。山芋のたたきの梅肉和えが美味しかった。
帰りには千頭駅向かいのカフェうえまるで注文したSLチョコレートアイス。大混雑で受け取るまで30分かかり焦ってしまった。


五月始めの東京駅はおどろくほど混んでおり駅弁売り場に近づくことも難しかったので、新幹線でのお昼にはグランスタで神戸牛のミートパイを購入。デザートのスジャータタイムにはいちごアイスを選択。
豊橋で乗り換えの際に初めて買ったのは知立名物、藤田の大あんまき「クリオレ(クリーム&オレオ)」。静岡駅で見つけた黒はんぺんフライサンドはハムカツみたい、まぐろメンチバーガーはコロッケみたいだった。

連休の記録その2


秩父へ出掛けた際、いつもは芝桜まつりで買っている肉の味噌漬けを秩父神社の参道にある安田屋で購入。箱入りだと数日後から食べごろのところ、すぐ食べるならとバラで買うことができた。翌日にフライパンで焼いたのとグリルで炙ったのと両方出してもらったら、どちらも美味。


六本木ヒルズにオープンしているカフェ ド パリに出向いて並んでみる。ボンボンの生クリームが日本仕様で軽めなのとスリーブで隠れている下部が苺じゃなくスムージーなのが口に合わず、不味くないけれど食べ切れなかった。

パパは奮闘中!


映画は子ども二人が寝ている暗いうちから車で出勤するオリヴィエ(ロマン・デュリス)と、その子らと楽しそうに、傍からは円満に見える時間を過ごす妻、その間に彼が職場で人事担当者に同僚の解雇を取り消すよう掛け合っているのに始まる。失業率の高い現在のフランスで「嫌ならよそへ行け」と言い放たれるこの主人公は家庭を顧みないのではなく顧みることができなかったということなのかと見ていると、それだけではない、もう少し違う話だ。

冒頭のオリヴィエの嘆願は「上が決めたことだから」と取り合ってもらえず、暖房を付けてくれとの要望も無視される(その代わりにサンタ帽が配布されるというジョーク)。労働組合に属し仲間をかばう彼の行動は全く実を結ばず、同僚からは告げ口を疑われもする始末。組合仲間はあまりの報われなさに抜けてしまう。そんな余裕のない環境において、オリヴィエはどこにおいても「一人」できりきりしている。これはそんな彼が最も大切なところから、すなわち家庭から、「私たち」を始めようとするまでの話である。子も含めて「私たち」になることで苦境を乗り切り、それを職場にも広げようというのだ。

妻を失ったオリヴィエの家へ母親と妹がやって来ることで、夫婦とその子ども達という家族が繰り返されているというこの物語の形が浮かび上がってくる。彼の父親は子の成長を見ないまま早く亡くなったが、同様に家族と「語り合う」ことのなかった彼は、逃げたかったけれども我慢した彼の母とは違い自身を守って逃げのびた妻のおかげで否応なしにコミュニケーションを取る機会を得られたのだと言えよう。いったん失った子を再び得た朝に生まれ変わったオリヴィエは、カウンセラーの前で子の中心に腰を据え「皆」と口にする。皆が彼女を待っていると。「決めるのは彼女」とプロは返すが、「私たち」になった家族は前より強い。

オリヴィエが「私たち」をまず家族から始めるのは、そこは彼の力でどうとでもなるから、換言すれば「私たち」という意識を作り上げることができるのは大人の側だけで子には不可能だからだ。フランス映画といえば「太陽のめざめ」で一人の子のためにいかに多くの大人が心を砕いているかが描かれていたのが忘れられないものだけど、本作では特に学校など何の頼りにもならない。「気を付けて」との声かけが精一杯のようで余裕がない。教員のみならず大人は皆、自分に少し余裕があるなら周りの子どもに目をやった方がいい、そんなふうにも見た。

連休の記録


この時季恒例、羊山公園の芝桜まつりへ。ぐずぐずしていた空がこの日だけすっきり晴れて、遠くの山まできれいに見えた。


今回の往復は西武の特急Laview。行きの車内では私の作った小さなおにぎりやら何やらを広げた。帰りはちちぶベーカリーの珍しい「そば粉さくらあんぱん」。


お祭り会場でいつもの色々、みそポテトにぶっかけそば、山菜の天ぷら、白いちごのジェラートなど。西武秩父駅まで歩いて泰山堂カフェでコーヒーとくるみのケーキ。


帰りの特急まで時間があったので、秩父神社と、初めて知った秩父所十三番なる目の神様でお詣り。参道も賑わっており楽しかった。