コレット


最後に「さすらいの女」の「今は幸せを求めている」という一文がコレットキーラ・ナイトレイ)の声で語られる。かつてミッシー(デニース・ゴフ)に「幸せな人なんている?」と返した彼女はもういない。コレットは自分で自分を真に舞台に立たせ、その名を皆に呼ばれる。晩年の本人の写真と共に「いい人生だ、もっと早く気付けばよかった」との言葉が紹介され映画が終わる。彼女が「気付く」までを映画化したのは、自分の人生を生きている姿よりもそれを取り戻す行為に焦点を当てた方がエンパワメントになるとしたのだろう。

オープニング、眠っているガブリエル(ナイトレイ)を起こしに来た母シド(フィオナ・ショウ)が「今日はウィリーが来る」と告げる表情が何とも微妙で、引っかかったまま見始める。「妻を演じたことはあっても母を演じたことはない」と言っていた彼女はそのずっと後年、キッチンでナイフを手に「早く別れなさい、彼はあなたの足を引っ張っている」と娘を諭す。娘の自分らしさを守り伸ばすことが自らの務めであること、どんな相手であろうと女は結婚したら自分らしさを失うおそれがあることを意識していたのだ。

本作ではコレットと夫ウィリー(ドミニク・ウェスト)の間のあれこれは史実からかなり変更されている。加えてミッシーいわくの「長くても手綱は手綱」だろうと、「校長」として妻を支配下に置く夫は魅力ある人物として描かれている(現代に生きる私からしたら一日で勘弁、だけれども)。それはひとえに、一緒にいて楽しかろうと才能を開花させてくれようと勿論自分を愛していようと、自分が自分らしくいられない相手とは関係を絶つべきだと訴えたいがためだと思われる。

冒頭から「『ラ・トスカ』はサラ・ベルナールはいいが感傷的すぎる」、ガブリエルの書いた「学校のクローディーヌ」に「女らしすぎる」と感想を述べ「男性読者が喜ぶ」よう手を加え、世に出してみれば「若い女性に売れている」と聞き驚くウィリーは、女に感情があること、それを共有する楽しさ、素晴らしさを知らない。だからコレットの書いた作品が夫の名前で出版されている問題につき、自ら「爆弾」と言っておきながらそれに火をつけるのが彼女自身だとはよもや考えないのだ。「あなたのために努力した自分を恥じる」と爆発したコレットの続くセリフで、ミッシーが「クローディーヌ」を誰が書いたか見抜いた理由、秘書がノートを燃やさなかった理由が分かる。それが彼女自身だからだ。