これは映画ではない



イラン警察に逮捕され釈放後は自宅に軟禁状態、映画製作を20年間禁止されたジャファル・パナヒ監督による、原題「This is not a film」。面白かった。


冒頭、若干傾いた画面の中で朝食を取り始める一人のおじさん。同時に手元のiphoneを操作する。薄いパンを千切りジャムを塗っていると電話から声が聞こえてくる。ずいぶん「作為的」な映像だ。そう思うと、「暗転」の後に再び彼が「息子が仕掛けていったカメラ」の前に眠たそうに、シャツとトランクス姿で現れるのが何とも可笑しい。全編に渡ってこの「作為的」な感じが愛らしい。
「家の中」において、舞台は「朝食を取る」部屋から「お茶を飲む」台所へ、「脚本を読む(ためのセットを作る)」部屋へ、「DVDを観る」部屋へと移ってゆく(広くて羨ましい・笑)。映像は映画仲間の持参したカメラによるものと、監督の手にしたiphoneによるものとが場面によって使い分けられている。また電話での会話(相手の声もきちんと聞こえる)や訪問者とのやりとり、ニュース番組の内容などから、前情報無しに本作を観ても監督の「事情」や、この日が「火祭り」であること、その背景なども分かる。全てが行き届いている。


台所に腰を下ろした監督は、お茶のグラスを前に電話を掛ける。その後、不意にこちらに向かって「この役はもう降りたいね」と口にする。先程の電話の相手が来て、カメラを向けていることが分かる。この後カメラが移動して、椅子に掛けられた上着と机に置かれたグラスで、相手の存在が「確定」するのに、「マリリン 7日間の恋」の「王子と踊子」のダンスシーンの、マリリン視点での撮影場面を思い出した。なんてことない画だけど、私はこういう瞬間が好き。
次いで監督は「あっちなら広いから」とリビングに移動し、息を荒げながら絨毯にテープを貼り、セットを作る。台本を手に、撮る予定だった映画を「説明」し始める。しかしいくらか進んだところで止め、これが何になる?と嘆息する。テレビのある部屋に移動し、自分の作品を流しながら例を挙げ「映画」について語る。「演技はもう嫌」と逃げ出した女の子について「まさに今のぼくだね」。素人の役者の演技が演出を越えた瞬間、ロケ地が「監督」となった瞬間。後の二つはいずれも、「脚本を読む」だけじゃ映画は出来ないということを端的に示している。


食糧配達人との「町はどう?」「まだ何も始まってないよ」という会話から、この日が特別な日だと分かる。陽が暮れ始めると、外から聞こえる爆竹の音の間隔が小さくなる。
帰ることになった「カメラマン」は、最後に「あの日からのことを全て撮っておけば面白かったのに/とにかく記録することが大切だ」という言葉を残す。入れ替わりにゴミ収集のために青年が登場。「カメラマン」以外の訪問者のうち、顔を映されるのは彼だけだ。監督は先程の言葉に従うように、彼を追う。始めiphoneで撮られていたのが、カメラ越しになった途端に美青年ぶりがはっきりするのは面白い(笑)
監督と青年はエレベータに乗り込む。ワンフロアずつドアを開きながら、彼の口から「あの日」の話が洩れる。しかし中途半端なまま二人は一階に着き、門の外に炎が見え、青年は出てゆくが、カメラと監督はこちらに留まり、映像は終わる。


私としては、予告編でも目立ってた、監督が「脚本を読む」場面のみ、つまらなく感じた。あれが「本当の映画」になればどんなだろう、と思うばかりだった。それは必要な「つまらなさ」だったのかなあ、やっぱり監督は、自分の思う「本当の映画」が作りたいんだよなあ、と思った。
しかしそう思いつつ、もし他の、例えば私の好きな監督が、こういう状況になりこういう「映画」を撮ることになったら、どういうものを作るだろう?と想像せずにはいられない。なんて人でなしの楽しみだろう。