悲しみに、こんにちは



映画は少女フリダの後頭部に始まる。花火を見ながら突如出現する彼女には既に何事かがありすぎたようで、今から追うのがとても大変なように思われて、引き込まれた。私はそういう、指の間から砂がこぼれ落ちるような、遠くにいる誰かに追い付けないような、見ていて焦らされる映画が好きだ。


原題「Estiu 1993」が出て、特別だけど普通の、単なるひと夏の物語なのだと思う。私にも子どもの頃の夏は幾つか(「幾つも」じゃないのだ)あるが、もしも周りにいた人の大方が死に、私が忘れてしまったら、それはあったことになるのだろうかと思いながら見た。


「ママと私の家」の一部屋で自分に背を向けて、肉屋の店先に立つ自分の頭上で、木登りする自分の下で、テーブルにもぐっている自分の上で、大人達は話をする。「ママと私」のことなのに私は蚊帳の外である。大人って変なものだ、こんなに傍にいるのにまるで傍にいないような言動をとる、勝手に境界線を引くんだから。


子どもは保護者を基地として冒険し世界を広げるのだという古典的な論があるが、序盤のままごとの様子から、フリダの母親がどんな基地だったかが分かる。現在の彼女には基地がなく冒険できない。しかしそこから離れた時、基地が自分を呼ぶ声に、あれ、これが私の基地かなと思うのである。


夏が終わり新学期の準備をするおそらく昼下がり、フリダの目に映る、国語や算数の準備をするよう話すマルガの顔が素晴らしい。私の予感があたり、フリダはその後、あることについて立て続けに話す。このやりとりに、この夏が、よかったことも悪かったことも鮮やかに甦り、焼き付けられるのだ。


フリダが股をおっぴろげる場面がやたら多いのもよかった(「もうプールに入っていい〜?」のカットなんて凄い・笑)。「下着の紐が見えているのが女の自由の象徴」というのにも似て、そりゃあ子どもは大人と違うから作り手も守らなきゃならないけれど、それでもあそこには自由を感じた。だって股、広げてた方が楽だよね。