アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男



よく出来た、面白い映画だった。描かれているのは「国のためなら国家に反逆もする」、具体的には終盤はっきりとセリフにあるように「ナチスの出でありながら政府の要職についている悪人達を検挙する」ために猪突猛進するフリッツ・バウアーの姿(演じるのはブルクハルト・クラウスナー、この人の出演している映画は大抵面白い)。ある時代には(あるいは「常に」だろうか?)真の愛国者こそアウトサイダーであり、国を愛するほどに「壁という壁が自分に倒れかかってくる」という話である。


オープニングは記録映画「アイヒマン第三帝国」の一部。こちらに向かって語り掛けるバウアーの最後の言葉「若者は歴史や真実を知ってもそれを克服できるが、彼らの親の世代には無理なのだ」が引っ掛かったまま見始める。するとこの物語は、若者を信じて「真実」を明かさんと突き進むバウアーが、それを受け入れる余裕のない大人達に阻まれる話に見える。


バウアーによる、正義感は強いが「おめでたい」部下のカール・アンガーマン(「ラタトゥイユを作る熊さん」ことロナルト・ツェアフェルト)に対する説明で、無知な私もおよその状況を掴むことが出来る。現官房長官も「お仲間」だからアイヒマンを捕えると芋蔓式に現政権が崩れる、だからドイツも、それを望まないアメリカもナチス戦犯の逮捕に積極的ではない。ただ時間だけが12年も過ぎている。


この映画はまずスパイものである。大変分かりやすい諜報活動、ナチスを挙げたいバウアーと波風を立てたくない現政権との「裏のかき合い」が描かれる。訪れたモサドで、「ユダヤ人を守るので精一杯だ、過去には関わっておれない」「少ない部下はアラブとの戦いに投入したい」と「確実な証拠」を求められたり、後のやりとりで、アイヒマンの息子と付き合っていた女性がモサドの要請でスパイ活動を行ったと分かったりするのも面白い。


とある理由で共に「アウトサイダー」であるバウアーとアンガーマンの友情ものでもある。「君は皆とは違うようだ」に始まった関係は、食堂での「刑法175条」に関する相談、「台所の修理」をきちんと終えて来た上に依頼は断るも「友人だと思っています」、やがてアンガーマンは「私は国の敵なのか」とくずおれるバウアーに「違います、フリッツ」とその名で呼び掛ける。


バウアーいわく「ドイツは『また』革命よりも復興を選んだ」「国民には未来像がなく、小さな家と車を欲しがっている」。国の基本単位である(と自身も言う)「家庭」がそちらを選ぶならば、「革命」を担うのは、家庭を持たない、あるいはより「理想的な家庭」を持つ自分なのだ、という決意にも受け取れる。勿論これは何十年も前の話で、今はもう、二人の「妻」の権利だって叫べるのだと考えると、少しでも進んだのかなと思う。いやまだ全然、進んでないか。


バウアーはテレビ番組で若者に向けて「国の自然もゲーテやシラーのことも我々は誇れない、それは我々が為したことではない、我々が誇れるのは(立派な法ではなく)父や母や息子としてどんな善行をするかということなのだ」と語る。ああ、「フリッツ・バウアー」が今の日本…「日本すごい」に溢れた日本にいても煙たがられてしまうんだろうなと悲しくなった。


孤立無援のバウアーはテレビや新聞などのマスメディアを頻繁に利用する。アイヒマン捕獲の発端となったブエノスアイレスからの手紙も、現地の市民が「あなたを新聞で見た」からと寄越すのだ。偽の情報を信じているふりでの記者会見には、探偵ものでよく見るあれ、本当にあるんだなと思う(笑)


他に印象に残ったのが、アンガーマンと同年代であろう、つまり「若者」の側に入る秘書の女性で、彼女にとってはその仕事をきちんとこなすことが、バウアーの言う「日々の善行」なのだと思う。上司のテレビ出演の翌日に感に堪えないといったふうに話し掛けてくる様子に、それも彼女に出来る精一杯のことであり、バウアーの精神は伝わったのだと胸が一杯になった。


中盤「下半身ネタが一番だ」とのセリフがあるが、これはそういう話、つまり、そんな馬鹿馬鹿しい世の中での話である。冒頭集められた検事の一人の「一週間じゃ何も変わりませんよ」と、終盤のバウアーの「一週間会ってなかったな」(その間にアンガーマンには大事が起きている)との対比など、セリフの数々がうまくぐっときた。