聖の青春



松ケン素晴らしかった。変なことを言うようだけど、最後に至り、村山聖って生きてたのか!と思ってしまった。
村山聖という人はいかに愛らしかったか、皆がいかに彼を愛したか」というのが原作の主旨なので、映画は違うことを描きながらも一応沿っている、と思う(笑)


作中早々、村山聖松山ケンイチ)と羽生善治東出昌大)の初めての対局が行われる。近年は映画で「何らかのプロ」が出てくる度に、リベラーチェを演じたマイケル・ダグラスの「動きを真似しただけ(大意)」という言葉が頭に浮かぶので(バッハも「演奏」について似たようなことを言っているから、強烈に覚えているのである)、「棋譜を覚えてなぞる」とはどういうことなのか考えてみたけど、私が将棋に無知なことも手伝って、何が起こっているのかよく分からなかった。


この対局の場面において、駅のホームや定食屋や歩道で「いつもの」時を過ごす人々のカットが挿入されるのは、冒頭弟弟子の江川(染谷将太)に「将棋の神様に嫌われますよ」と言われた聖が返す「僕にとって将棋は生活の一部だから」ということを表しているのだと思う。でもって、ここでそういう描写が入るということは、羽生にとってもそうなんじゃないか(と聖は見抜いた)んじゃないかと思う。


上京した聖が後輩達に指導をしながら歌舞伎揚を勧めるカットにふと、ああこれは確かにタイトル通り「聖の青春」を描いていると思う。次いで彼が橘(安田顕)にアロハシャツを買ってもらったり荒崎柄本時生)の新車の助手席で吐いたりといった、「他愛もない」姿が重ねられる。私が「青春」だと思ったのはそれらがいかにも青春らしいからではなく、これらこそが彼の「青春」だからである。続けて聖と羽生がそれぞれ将棋に向かう姿が挿入される。二人にとって将棋は生活の一部なのだから、そうなるんである。


作中二度目の対局でも、聖と羽生は目も合わさない。外の雪景色とその中の猫を見やる時にもそうだ。係の者はいるが「外」から見えるのはただ「局面」だけ、というのにどことなくエロスを感じた。しかしその「局面」から、橋口(筒井道隆)は「自分一人で指している」、森(リリー・フランキー)は「仲いい将棋をしてる」などと「読み取る」んだから面白い。


原作ではほぼ出ずっぱりだった師匠の森がこの映画では引っ込んでいるが(描かれる「時期」の違いもある)、例えば羽生との対局にタクシーで現れた聖の隣を歩く時の様子には、彼を一人で歩かせるが倒れればいつでも支える、という姿勢が表れていた。他にも聖に黙って殴らせる江川、将棋界をひょうひょうと泳いでいるふうの荒崎、身支度を整えてから「負けました」と一礼する橘など、様々な棋士の描写が面白い。「将棋会館」は彼らの根城であり、終盤迷い混んだ看護師にとってはまさに「異国」だ。


聖が読みまくる少女漫画については、ずらりと並んだ背表紙にピントが合わないのでタイトルがよく見えなかったけど、出版社が雑多であるということは分かる(原作にも色々読んでいたと書かれていた)。現役の少女、少女漫画が好きな少女って好みが偏るんじゃないかと思う。彼はもう大人だから比べても意味がないかもしれないけど、きっと少年の頃から「少女」ではなかったのだと思う。


(ところで、ふらりと大阪に帰った聖が訪ねたあの古本屋に、今から数年前に出た円丈の「ろんだいえん」が並んでいた。さすがに完璧に「当時」の本棚にはできなかったか)