ストレンジャー・シングス



Netflixオリジナルドラマ。シーズン1の全8話を、ちょこっと遅ればせながら観賞。
アンブリン・エンターテインメント育ちの私としては、冒頭からたまらなく惹き付けられた(理由は「見れば分かる」と言いたい)。「ゴーストバスターズ」を楽しめる今だから、少女達が美少年をかくまう話だったらなあと思わないこともないけど(笑)まあその辺も、「リブート」じゃなく「80年代そのまま」なんだなと。


以下、ツイートをまとめておく(少々「ネタバレ」あり)


このドラマにおける、少年、ティーンエイジャー、大人それぞれの行動による三つの話が多少絡みながらも並行して進んでゆく様は、例えるなら、ご飯ぽいもの、お肉ぽいもの、野菜ぽいものを「三角食べ」していく、どれも美味しい、次第に材料が何だか分かってくる、ますます美味しい、終盤には全てを一緒に頬張る、更に美味しい、という感じだ。
話が交わるということは、心が交わるということ。特に親子や姉弟など家族間の関係は、始めと終わりで全然違う。同じ母親でも状況により、「本当のことを言って」と懇願するしかないいわば蚊帳の外のカレン(カーラ・ブオノ)と、蚊帳の中どころじゃないジョイスウィノナ・ライダー)の対比も面白い。行動した者は、それぞれあからさまな程に「成長」する。結束も行方不明になったウィルを見つけようという決意も固いが、「仲間から抜けたいのか」と本末転倒な文句を口にする少年達が、最後には見事な「チームプレー」を見せる。優柔不断で弱気なナンシーが、決戦の場においてスティーヴにあれこれ指示する様子からは、今後も自分の言い分を主張できるだろうと思わせられる。娘を死なせた悔恨に囚われ半ば眠っていた署長ホッパー(デヴィッド・ハーバー)は、目を覚ます。


最終回でマイクがエルに向かって言う「全て終わったら、ママがご飯を作ってくれる」「地下室にベッドを置こう、僕の部屋と交換してもいい」なんてセリフには号泣してしまった。子どもの願いって、叶わないんだよね。「現実」から遠いから。でもって高校、大学の、「現実」を知るけど「猶予」である時期を経て、大人になるんだよね。それが「映画の中」のお決まりである(そうじゃない映画もあるし)というのが分かっていても、実際には「現実」から遠くても叶うこともあるし、大人になってからもある程度融通がきくもと分かっていても、泣けてしまうんだな。
「友達は嘘をつかない」というのがキーワードの一つなんだけど(一話の冒頭に「伏線」がある)、エルの最後の行動は、マイクの上記の言葉の数々を「嘘にしない」、いや、彼に「嘘をつかせない」(彼女が消えれば「約束」を守る必要は無くなる)ためだとも言える。そう考えたら余計たまらない。


それにしても、ピーター・クイルの母ならぬ「ジョナサンお兄ちゃんのミックステープ」が欲しい!(作中流れてないやつばかりなんだろうから売れないか・笑)行方不明のウィルを探すジョナサン(チャーリー・ヒートン)の回想で、二人でザ・クラッシュの「Should I Stay or Should I Go」を聴いていると部屋の外で夫婦喧嘩が始まるのには、二年後の違う国の話である「シング・ストリート」を思い出してしまった(尤もあちらの「お上のせいで云々」という背景はこちらには無いけど)
各話の最後に流れる既成曲の脈絡の無さ(バングルス版「冬の散歩道」、ピーター・ガブリエル版「Heroes」、ジョイ・ディヴィジョン「Atmosphere」、バニーメン「Nocturnal Me」等)は、もしかしたら老若男女揃った登場人物誰かの好きな曲という設定だったりして、という想像も出来るけど(ピーガブのは「今」の誰かで・笑)80年代に当時が舞台のドラマを作ったらこういう選曲は無いと思わせる、つまり「距離」を感じさせるもので、作中の「小道具」の選択も含め、そのバランスの良さが、却って物足りなかったりもする。贅沢なものだ(笑)