生きうつしのプリマ



これ、好きだなあ。予告からは想像できないけど、人が死んでりゃ横溝正史、という筋立てにも関わらず、遠くから見れば悲劇も…じゃない、渦中の主人公ゾフィ(カッチャ・リーマン)が終盤には吹き出しちゃうんだもの。私も勿論、笑ってしまった。


色々な線で結ばれた(それらは全て「男と女」由来である)六人が食卓で「未来」と「過去」に乾杯し、娘が「彼女はもう、誰のものでもない」と歌い、「死んでやる」「殺してやる」と脅しあった男同士から解放されたその母がようやくの笑顔を見せる。生きている女達は新しい歌を歌うようになるだろう。ベタな言い方だけど「人生賛歌」なんだな。


オープニング、花束をシートに、鼻唄混じりに車を走らせる老いた男。スクリーンの中で車が走るのは、ミラーや窓に映り込む風景のせいか、何か、例えば「時の流れ」に逆らって進んでいるようにも見えるのが面白いと思っていたら、作中何度も出てくるその道を各々が車でゆく時、彼らは確かに過去へと遡る。一人だけその道を辿らないのは、ずっとそこに住んでいる者である。


死んだエヴェリンに「生き写し」のカタリーナ(バルバラ・スコヴァ二役)の、「生きている」感が強いのが心に残る。父親(マティアス・ハービッヒ)に頼まれゾフィが彼女に会いに発つ時、二人が見た記事のカタリーナの写真がスクリーンに大写しになると、画素の荒い、いかにも「記事の写真」なのに、なぜか今にも動き出しそうなのだ。後に父とゾフィが見る、彼女が歌う映像の顔のアップも凄い(としか言い様が無い)。


ゾフィがすぐ男に目を付けられるのも印象的。ニューヨークで通りすがりの男に声を掛けられるという、一見「意味」のない場面が二度、更にはカタリーナに近付くのも「男」頼みだ(いい男なので「渡りに乗りたくなるような船が来た」という感じ)。これは家族というものの根っこの多くがそうした「男と女」にあるということの示唆だと受け取った。「彼女は近寄りがたいが君は違う」「ありがとう」とは(何て失礼なやつだ!と思うけど)含蓄あるやりとり。