グレイス&フランキー



(またしても「映画」じゃなく「ドラマ」だけども。ドラマカテゴリを復活させようかな?)


ソフトスルーもの「愛しのグランマ」のリリー・トムリンがよかったので、Netflixのマイリストに入れっ放しだったオリジナルドラマを見始めた。現在シーズン1の第6話(このシーズンの中程)まで観賞。制作は「フレンズ」などのマルタ・カウフマン、主演はジェーン・フォンダとリリー・トムリン。
第2話のタイトルが「クレジットカード」で、二人が共に元夫にカードの使用を停められ激怒するんだけど(同席した女性の自分のカードを出しながらの「私はちゃんと働いてるから」という台詞からして、そういう年代だという描写なのかなとも思う)トムリンの「愛しのグランマ」でのカードについての言動を思い返すと面白い。


可愛らしいオープニングクレジットで表されているように、齢70を迎えた二組の夫婦の夫同士が「20年前から愛し合っていた」と結婚、うまの合わない元妻同士が顔を突き合わせるはめになるという話。基本的には、ごずりんの顔がプリントされた椅子に座ったフォンダが、トムリンに笑わせられて「やだ〜ライアン・ゴズリングの顔にちょっと漏らしちゃった」と言うようなドラマで、笑っちゃうんだけども、回が進むにつれ、ジョークは鋭く、問題は深くなっていく。
今のところ最も心に刺さったのは、トムリンの息子が、父親カップルと子ども達の食事会(説明が難しい・笑)にケーキを持って来た際、フォンダの娘に「自分がゲイじゃなくても祝う気になった?『女』との再婚なら祝えた?」と言われてケーキを引っ込め、トムリンの家へ持っていくくだり。見ている自分へ向けられた言葉にも思われた(結局のところ、色々な意味で、自分の「仲間」であれば贔屓してしまうものだから/勿論、「男同士」だからなかなか言い出せずこんな事態を招いてしまったというのもあるわけだから、相手が「女」だったらとはなかなか、置き換えて考えられないけども)


面白いのは、「カップル」である男二人と「たまたま一緒にいる」はめになった女二人、二組のやっていることが傍から見たらそう変わらないという点。「つがい」が基本であること、セックスのパートナーが人生のパートナーであること、とされる人間社会の不思議をいつもながら思う。
マーティン・シーンサム・ウォーターストンの元夫カップルの側の描写も案外多く、ちゅっちゅっ場面は勿論、諍いもあり、トムリン共々「ヒッピーくずれ」のウォーターストンが葬儀の際に「変な靴」を履いたり声が大きかったりするのに文句を言われての「僕はきっとこれからも迷惑を掛けちゃうけど、それでも一緒にいたい?」にはぐっときた(笑)先に「そう変わらない」と書いたけれど、こちらの二人の「衝突と和解」の繰り返しは、ドラマの都合というより、「人生は短い」のだから、70を過ぎて(言いたいことを言った後にはもう)愛する人と争っている暇などないのだ、というメッセージにも思われる。


目立つのは、フォンダが「(私からしたら)ほぼ何も食べない」こと。冒頭の会食に始まり、デートで注文するサラダは勿論「クルトン抜き」、メンチーズ(新宿にあるから私だって行けるもんね、一応・笑)では試食用?の容器でフローズンヨーグルトをちゅるっと飲み干す。トムリンの「薬好き」にも対応する、そういうキャラクターなんだけども、ほんの印象だけど、最近の映画やドラマでは、皆が同じ食べ物を囲んでわいわい、という描写が減ってきているように思う。食べればいいってものじゃない、そこにだって個性があるのだという感じ。
この描写には、先日見た「砂上の法廷」でレネー・ゼルウィガー演じる同じ「弁護士の妻」が、その細い体(彼女と思えない、まあ思えるけど、とにかく細いの!)を保つためにタバコを吸っていたのも思い出したけれど、フォンダは「(元)キャリアウーマン」なので、そこには意思があるのだった。最近の映画からの連想といえば、「人生は小説よりも奇なり」を見た後では特に、このドラマの「男同士の夫婦生活」はあまりに裕福で目が眩む。「奇なり」の「結婚した途端に生活が立ち行かなくなる」という皮肉の裏返しのようにさえ思われる。


「グレイス&フランキー」予告編
(オチに使われてるやりとりの字幕は残念、ドラマ本編では適切に訳されています)


ジェーン・フォンダとリリー・トムリン、女同士の長年の友情を愉しく祝う」
(TED Talksより、日本語字幕を付けてくれた方がいます)