野火



「野火」って一文字一文字が文学としか言い様のない小説でしょう、映画にするなんて、一秒一秒が「映画」じゃなきゃ作る意味ないじゃん?と思ってたんだけど(「映画」とは全てそうであるはずというのはさておき/市川崑版は未見、今度見てみよう)なかなか面白かった。これはまたちょっと違う「野火」。


「野火」が面白いのはまず、主人公が道を歩いたり他の兵隊を見たりと色々な時に色々なことを考える、その内容なんだけど、映画じゃそれは表現できない。どうするのかなと思っていたら、例えば冒頭の現地の人家でのくだり、小説なら色々あって色々考えるところを、あんなふうに見せるなんて。好きな言い方じゃないけど、見事な「処理」。あそこは痺れた。
特に前半は畳みかけるように「物事」を見せてゆくけど、それだけじゃなく、主人公が何かを考えているらしき箇所で時間を取ることもする。例えば遭遇した隊の下っ端の兵に「お前は自由なんだから」と言われた後のあのひととき。「自由」って?と当人じゃないこちらだってそりゃあ思う。あそこもぐっときた。


とにかくお金が掛かっておらず、回想シーンなんて、燃え盛る火のアップやらカメラが草むらをぐらぐらゆくのやらに音ががんがんついてるだけなんだけど、「実際」ああいうものなのかもしれないと思う。あの「視野の狭さ」が「野火」にとてもよく合っていた。
そして「夜」、あるいは伍長の気配を察した兵達がむくむくと立ち上がり、海辺の動物の大群のように這いつくばって移動し、「未知との遭遇」のような一瞬の後のあの場面、実は原作を読んだのに記憶に無い。私は「映画監督」じゃないんだなと思う。ともあれあれだって、「実際」ああいうものなのかもしれない(あるいは「もっと」かもしれない)と思う。


小説だと主人公の考えが逐一描かれることもあって彼と読んでいる自分とが一致してしまう(そして他者は「他者」でしかない)けれど、本作では、彼も他の人物も結構外側から見ている気持ちになった。そういうところからすると、上手く言えないけど、リリー・フランキーの役は、何と言うか「踏み込みすぎ」だと思った。