マルタのことづけ



一人で生きてきたクラウディアと、余命わずかなマルタ、その子どもたちとの交流を描く。舞台はメキシコのグアダラハラ。クラウディアとは監督の名、実体験を元にしているんだそう。


映画はクラウディアの「朝」に始まる。彼女が選り分けた紫のシリアルに蟻が寄ってくるカットの後に、彼女が橋の欄干を歩く足が蟻を踏みつけそうになるカットが繋がる。「実験的」な匂いを感じて構えていたら、クラウディアがマルタの家に招かれ夕食が何だか中途半端に終わるまでの様子は、家族の面々ををカメラが順に追う長回しで描かれる(途切れる部分があるから準長回し長回し風とでも言おうか)これにも、もっと「普通」でいいのにと思ってしまった。
リビングの窓は開け放たれており、クラウディアは外から持ち込まれた椅子で食卓に加わる。翌朝帰ろうとすると、玄関に外から鍵が掛かっており出られない。このメタファーめいた描写にも少し引っ掛かった(もっともこのことに「理由」はある)


わざとらしい作りだなと思いながらも、次第に心が沿い、ぎゅうぎゅうづめの黄色いビートルが家を後にする場面にぐっときたのは、渾然一体性とでもいうような類の暖かさゆえ。例えば入院中の母親の付き添いについての、長女アレハンドラと二女ウェンディのやりとり「あなたは働いていないじゃない、私はこれ(物を書くこと)で稼いでるのよ」「私にだって生活がある」。子守を頼まれたクラウディアが試食販売の仕事に三女のマリアナと末っ子のアルマンドを連れて行くと、彼らはスーパーでクラウディアを手伝い、職場のクリスマス会にも居座る。映画はウェンディが何もしていないことを「問題」としているし、クラウディアの仕事ぶりは私には「許せない」範疇だけど(笑)こうした雑然さにはほっとする。
単純に、マルタの「家」のごちゃごちゃ感というのもある。病院のベッドでチップスを食べるマルタの家では、子ども達の好物のソーセージが乱舞する。私の実家は毎朝ご飯とお味噌汁におかず一品、年に数回カップラーメンを食べるのにも茹でたほうれん草を添えられるような具合だったから、子どもの頃は、そこらじゅうに食べ物のある、あるいは逆に何も買い置きのない友達の家に憧れており、そういう気持ちを思い出した。サンドイッチを元のパンの袋に詰めているのが特によかった(笑・外国にはそれが「普通」のところもあるのかな?)


クラウディアは、腕に幾つも傷のあるウェンディ、それからマリアナアルマンド、恋人に振られたアレハンドラ、それぞれと一対一での時間を経て、「家族」全体との距離を縮めていく。「異端」が接着剤のように染み渡り、ひび割れた家族を修復する。
しかし病院では、「家族」ではない彼女の前でドアが閉められる。海へ行きたいと言うマルタは子どもらに反対されると「クラウディアはどう思う?」、場面が変わると出発シーンなので彼女の意見、あるいは応援が受け入れられたのだろうけど、浜辺では再び「家族」でないことを実感させられる。ウェンディ、アルマンド、アレハンドラがちょっとした「災難」に遭うと、「あとはマリアナだけだよ!」と冗談が飛ばされる。作中二度目の、全員で食卓を囲む場面では、周囲は全く開かれているが真っ暗だ。マルタが病院に運ばれるのを見届けたクラウディアは、もうねじれていないリュックでうちへと帰る。
これは「互いの人生に姿を現し合う」話であり、それはクラウディアとマルタの家族との間だけじゃなく、様々なところに起こる。そしてクラウディアは、意思でもって、また黄色いビーグル、あるいは他の車に乗ったり運転したりすることができるのだ。