華麗なるギャツビー



公開初日、新宿ピカデリーにて2D字幕版を観賞。とくに前半は「3D用の映像」が続いて辛かった、ああいう映画なら3Dで見ればよかった。
小説は未読、1974年のロバート・レッドフォード主演の映画のみ観たことがある。同じ原作でも「印象的」なセリフが全く違うので、それとこれとは勿論、全く違う映画だ。


「物語」は雪の降る日にひと夏の出来事を回想し、文章に書き起こすニック(トビー・マグワイア)によって語られる。顔に手を添えた登場シーンこそ…その瞳は特に「退廃的な美」を感じさせるが、その後はよれよれ。「物語」の中でもこのシーンより美しいことはない。彼が美しく見えたのはこの登場シーンと、ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)がいつも立っていた桟橋を帽子を被って訪ねる(「物語」中の)最後のシーンだけ。すなわち私にとってニックは、ギャツビーとの「物語」を内に抱えている時だけ輝いていたことになる。


ニックの紡ぐ物語であるということを強調しているおかげで、彼のナレーションや皆の表情、セリフ、全てが「説明的」でもおかしくない。彼が「そう思った」のだと取れるから。でも私は、例え原作にそうあるとしても、「映画」においては、「全てはデイジーのため」は女友達ジョーダンのセリフだけの方がよかったし、「『眼鏡』が神のように見下ろしていた」なんて、ウィルソン(ジェイソン・クラーク)の表情によるか、あるいは何も無くして自分でそう「感じ取り」たかった。まあ「アル中は話がくどい」と思えばいいのか(笑)
映画は冒頭から、作品「世界」を詳しく説明してくれる。ニックの働くウォール街は当時どんな場所だったか、彼が「掘立小屋」を求めたのはどんな界隈だったか(ご丁寧に大邸宅に挟まれた様子も「空撮」で挿入される)、ギャツビーのパーティに来ていたのはどんな種類の客だったか。100年近く前の時代が舞台なんだから確かにありがたいけど、そうした言葉と共に、あるいは後に映るビジネスマンやお客は、輪郭のくっきりした「そういう人」でしかなく、余韻を奪われたように感じた。
ただ、ギャツビーのパーティーにやってくる客達の車や、ニックをランチに連れて行くギャツビーの車などの描写から、当時は「交通事故」というものに今とは違った意味があったのかもと(実際どうだったかというんじゃなく、そういう可能性があるなと)ふと思った。そういう風に、ある「時代」をこれまでとは違う目で眺めることのできる映画だった。


レッドフォード版の好きなところは、彼演じるギャツビーが、ニックをどう思っているのか「分からない」点。いわゆる「利用しているだけ」なのではないか、もしやギャツビーには「(「普通」の人が持つとされる)人を思う気持ち」が無いのではないか、と感じられるところが面白い。対して本作はとても「分かりやすい」。少なくともニックがギャツビーに「魅せられて」いるのは最初から最後まで明白だ。彼の目を通したギャツビーはひたすら表情豊かで子どもっぽく、愛らしい。
レオ様の、「(ニックが初めて顔を合わせる時の)最強の笑顔」「(ジェニファーがデイジーと一緒の彼を回想する時の)女の子をとろかすまなざし」「(ホテルでブキャナンに飛び掛かる時の)まるで殺人鬼」などの説明付きの顔には、そうかあ?と笑っちゃうばかりで心動かされなかったけど、ニックとの「お茶会を開くのは好意からだよ」「好意?(Favor?)」というやりとり、そのうるんだ瞳にはぐっときて涙があふれそうになった。これは「分からない」レッドフォード版には無かった、単純化された、がっちり掴まれたギャツビーだからこその感動。加えて次の、ギャツビーが花とケーキを山と従えてやってくる(「普通」の人ならしないようなことをする)場面が可笑しく映る。ニックが花やケーキにそぐわない「普通」の茶器でお茶を淹れる姿にも笑ってしまった(レッドフォード版では豪華な銀食器を持ってくるのが印象的だった、原作ではどうなんだろう?)


レオ様のスーツの後ろ姿は美しかった。そういえばデビュー当時には、なんて手脚のひょろ長い男の子だろう!と思ってたものだ。もっとも本作でも、スーツで決めた「大人」っぽい時より、最後に上着を脱いで車を拭いている時の方が似合ってたけど。


ギャツビーがデイジーとの出会いについて言う「良家の娘のよさ」とは何だろう?ギャツビーと一緒に居る時には遠くに逃げたい、ホテルに居る時には家に帰りたいと思う、もう幸せじゃない女。キャリー・マリガンによるデイジーにはスパイスが無い。それが「良家の娘」ってことなのかもしれない。