魔女と呼ばれた少女



アフリカ、コンゴ民主共和国。12、13、14と…村を破壊され、両親を殺され、拉致され、子ども兵にさせられ、妊娠させられた少女の旅の物語。


映画は、少女コモナが自分のお腹の子に向かってこの3年を語るという構成。「(「夜の相手」をさせられていた司令官の子である)あなたを嫌いになりませんように」という言葉が何度か挟みこまれる。
冒頭、母親に髪を結ってもらっているコモナの顔は、満ち足りているというよりも、当たり前のことを享受しているように見える。この場面からして彼女の「顔」が素晴らしく、最後の瞬間まで惹き付けられる。
直後に両親を「殺され」、拉致され、「両親と思え」と銃を渡される。下ばかり向いていると「うつむくな」と怒鳴られる。同じ子ども兵の少年マジシャンにこっそりもらったお菓子も、ひったくりうつむいて食べていた彼女が、再び顔を上げるのは、回し飲みさせられる樹液で感覚が麻痺し「幻想」を見た時。「幻想を見ている時だけが幸せ、地面に流れる血を見なくて済むから」。これを始めとする「神秘」の扱い方、混じり具合が私には丁度良く、面白く観た。


コモナとマジシャンの恋…いや、まともに関わることのできる他者は彼くらいしか居なかったんだから、まさに人間同士の愛、の描写がとてもいい。川に漕ぎ出す二人、舟を押すマジシャンのアルビノの白い手、うまく進まず「豚の方が上手いわ」なんて文句を垂れる彼女。終盤一人で川をゆく場面で、この時を思い出すと切ない。
「プロポーズ」のさり気ない画、「白い雄鶏」を探してバイクに乗せてもらう時のマジシャンの、行きはコモナの手を取って万歳、「夫婦」になった帰りは後ろからそっと抱擁、そんなふうに違う形で現れる気持ち、全てにぐっときた。その幸せをぶち破る「銃」は、作中出てくる銃の中でも最も恐ろしく感じられた。


コモナが生まれたであろう川辺の村の暮らしは、一瞬で破壊されてしまう。ラストに再びそこを訪れた時の、最早全てが砂に埋もれているかのような悲しさ、川辺に集積したゴミ(人が居ればあんなふうにはならないだろう)。
彼女が行く先々に、色々な「文化」がある。土着のものもあれば外来のものもあり、全てが対等な感じで存在している。子ども兵の暮らしに見られる歌や踊り、サッカー、マジシャンも興じるカンフーごっこ。「肉屋のおじさん」の仕事は、「このへんに肉屋はあるか?」と聞けば家に辿り着けるくらいだから、珍しい商売なんだな。女達は木の実?から油を取っている。


本作における「銃」の位置が、日本から出たこともなく暮らしている私にはよく掴めなかった。拉致された子どもたちは適当に切った木の枝を配られ、「銃として」肌身離さず持ち歩くよう命令される。そのうち「儀式」めいた感じで、「両親と思え」と一丁ずつ本物を渡される。「魔女」として生き残ったコモナへの「褒美」は、リーダー直々に手渡される銃だ。
二人は銃を忌憚しているわけではない。軍から逃げ出した後、マジシャンは二丁を丁寧に紙でくるみ、どうするのかと思いきや大切に持ち歩く。長靴をサンダルに履きかえても、銃だけは手放さない。もっとも泥棒に入った先で住民が銃を撃って威嚇してくることから、街中で見られてもおかしくはなく、必要でもあるんだろう。


「肉屋のおじさん」は、かつて家族をナタで殺されたため、肉をさばきながら吐いてしまうから、常に傍らにバケツを置いている。コモナいわく「でも(彼から聞いた)詳しいことは話さないでおくわ、残酷すぎるから」…本作ではほぼ、彼女が実際に見たものしか描写されない。戦場の場面などカメラがぶれるので、少々気持ち悪くなってしまった。ラストシーン、大切なものを他人に預けてまどろむ姿に、そんな時がいつまでも続けばいいのに、と思う。