ジャンゴ 繋がれざる者



公開二日目、新宿ピカデリーにて観賞。
観てる時には大して気持ちが高揚しなかったけど、振り返ると結構面白い映画だと思う。タランティーノの作品の中で一番「(話が)分かりやすい」のに、不思議といえば不思議。


「西部劇」を期待していた同居人は、ガンベルトなどの小道具や銃撃シーンの存在感が薄いことを残念がっていた。確かに本作は「西部劇」のツボをことごとく外してる、というか「西部劇」じゃなかった。
ふと「プリンセスと魔法のキス」を思い出した。ディズニー映画のオープニングのシンデレラ城と花火の映像を見る度に感じていた、お城から離れた街には何があるんだろう?という疑問に応えてくれたような気がしたものだ。本作も、見慣れた「型」を使いながら、そこに潜んでいるかもしれないものを見せてくれるところがまず面白い。


私にとって、本作は三つの部分から成り、それぞれ見どころがあった。
前半の「冬が終わるまでの仕事」編には、ジャンゴ(ジェイミー・フォックス)とドクター・キング・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)のバディものとしての楽しさがある。ビッグ・ダディ(ドン・ジョンソン)一味がダイナマイトでぶっ飛ばされるのに、すげえ!と目を見開くジャンゴ(ラストにこの時の彼を思い出すと可笑しい)、その後の場面で、やってみるかい?とライフルを差し出すキング。やがて「正式な」相棒となり、衣装や鞍を整え、並んで馬で繰り出す様子には、作中一番気持ちが高まった。
後半の「稼いだ後の作戦」編には、「色々な立場の人間」を見る面白さがある。発端となるカルヴィン(レオナルド・ディカプリオ)の登場シーンには、農場の主である彼と、白人でありながら彼の「奴隷」である者の他、死ぬまで戦わされる奴隷、「私はここに居ていい」と思っている奴隷、メイドやバーテンダーとして仕える奴隷、そして「最も悪辣な」黒人の奴隷商人(を演じる者)、という様々な種類の「黒人」がおり、互いをそれぞれの思惑で見合っている。舞台がキャンディランドに移り、執事のスティーヴン(サミュエル・L・ジャクソン)が馬上のジャンゴを目で捉えた時、睨み合いが本格的に始動する。こうした交錯に、ジャンゴとキングがそれぞれの「役」を演じるという面白さが霞んでしまうのは少々残念だった。
そして、「我慢できなくて」銃撃と血から始まるラスト。西部劇にあまり詳しくない私にとって、これまでのあれこれが一気に爆発するこのくだりが一番「西部劇」ぽかった。ジャンゴとキングの別れには泣けた。


クリストフ・ヴァルツにはこれまで心惹かれたことが無かったけど、本作の彼は素晴らしかった。あの「顔」と手の動き、立ち姿を見るためだけにまた劇場に行ってもいい。
「悪役」のレオ様は、アップになると髭の奥の口元などまだ子どもっぽいのが却ってよかった。垣間見える無邪気さに、「奴隷制度」が当たり前のことだったんだなと思わされる。「仕事」にあたってふと真顔になる瞬間もいい。
サミュエルの演技は大仰すぎて笑っちゃうほどだったけど、第一に、他人の一存に依って生きる者の実際なんて私には分からないし、第二に、弱者間の対立からジャンゴが「唯一手を下す『同胞』」として、あれくらい強烈なキャラクターにしておかないと忍びないという、タランティーノの優しさ、あるいは弱さかもしれないなと思った。
他に印象的だった登場人物は、「退場」シーンの見事な、カルヴィンの「姉」のララ(ローラ・カユーテ)。一見「たおやか」で「良識」がありそう、鋭さも持ってるけど、何も考えず年を重ねてきた感じもする。ああいう役にああいう女優をあてがうセンスっていい。ディナーの最中、スティーヴンがブルームヒルダ(ケリー・ライリー)の服をひんむいて背中の傷跡を見せると、「こんな席でそんなもの、誰も見たくありません」と叱ってやめさせる。それはブルームヒルダのためでは無く、単に言葉通りの意味なのだ。


一番笑っちゃったのは「フランス語は話せない」。突然ジョナ・ヒルが出てくる「袋」の場面もタランティーノらしくて楽しかったけど(「せっかく女房が作ったのに〜」なんてセリフもいかにもでいい・笑)、そこはかとなく面白かったのは、屋敷に二人を迎えたビッグ・ダディと黒人メイドのやりとり。「このニガー(ジャンゴ)を丁重に扱うって、どんなふうにですか?」「ええと、白人だけど貧乏なあの白人はなんていう名前だったっけ?そうそう、あいつだと思って扱え」って、なんなんだそのシステマティックな感じは(笑)しょせんこんな馬鹿馬鹿しいこと、という批判精神を感じた。