明日の空の向こうに



ドロタ・ケンジェジャフスカ監督の前作「木洩れ日の家で」は、一番最近「劇場で床に座って観た」映画。サービスデーの武蔵野館にて、満席だったから。本作は新しいシネマカリテにて、公開初日。親も家も持たない三人の少年が、旧ソ連からポーランドまで、国境越えの旅に出る。


冒頭、駅構内のベンチの上と下で眠りに付こうとする兄弟の描写に、とても心惹き付けられる。上の方がいいと思いきや、地べたの弟は「シケモク」を拾って独り占め。このタバコの「火」や、後にとある紙を燃やす(それが弟の瞳に映る)「火」が印象的。彼らには「火」はあっても「灯り」は無い。「道具」である「火」は幼いながら使いこなせても、「暮らし」のしるしである「灯り」は遠くからその頬を照らすだけ、彼らのものにはならないのだ。


全くもって「ある部分を切り取った」映画なので、不明な部分はこちらで補わなければならず…逆に言えば想像の自由があるので面白い。
弟ペチャは駅構内のカップルや野良犬に向かって銃を撃つ真似をする。「銃」の知識はどこで得たんだろう、どこかで見るテレビかな?しかし老いた浮浪者の存在に気付くと沈んだ様子になり、しきりに体をもぞもぞさせながら寝入ろうとする(あんな「演技」の「指導」、どうやってしたんだろう!)何故?と不思議だったけど、彼なりに、子どもでもなく仲間もいなければ「ああいうふう」になる、と考え見るのが辛いのかもしれない。
兄ヴァーシャと更に兄貴分のリャパは、「国境を越えれば幸せになれる」、つまり越えない限り幸せになれない、と「知って」いる。ペチャはおそらく知らない。そしてこの物語には、「知って」いるか否かという「運命」の非情さも描かれている。


貨物列車に乗り込む三人の顔がいい。レールのアップに次いで、眠らずにいようと思っても音と揺れに負けてまぶたを弛ませるリャパ、険しい顔で寝入るヴァーシャ、その腕の中ですやすやと眠るペチャ。
その後「ペットボトルと紐」をぶら下げた三人は朝市で物乞いをし、古い知り合いの老人に一夜の宿を求め、「結婚式」に遭遇、歓迎され(この時の、どこか不穏に感じられる空気がいい)、線路を歩き、「国境」に辿り着く。しかし物語は終わりどころじゃない。電気の流れる金網の下をくぐり抜けるくだりでは、長い長い緊張が続く。


ポーランドは三人を、「文字」による「平和」と、草原に咲き乱れる花で迎える。彼らは初めて、衣服を脱いで体を洗う。ペチャの「空はどこも同じだね」というつぶやきに、リャパは「違う」と返す。年長の二人には、自分の心持ちによって何もかもが違って見えるんだろう。だから彼らは、ラストシーンにおいて笑い出してしまうんだろう。
遭遇した子どもたちのリーダー格の少年は、警察の場所を訊ねるリャパに対し「警察部隊だってよ、『警察』って言うんだ、アメリカみたいに」と答える。比較的のんびりした社会であれ、子どもにも「国際事情」のようなものは刷り込まれている。故郷では厳しい状況の中で精一杯跳ねていた三人が、こちらでは、言葉の問題もありおずおずしている。
村の警察署はどっしりした石造り。女性秘書がキャミソールワンピースと細い靴という格好で階段を上ったり下りたり、うろうろするのが大儀そうで、建物と人間の不釣合いを感じ面白かった。