ヴィダル・サスーン



まずは撮影当時・御歳81歳のヴィダルがロンドンをバックに歩むモノクロ映像で、その存在感と洒落者ぶりに心をつかまれる。関係者たちによる賛美のコメントを経て、本人の第一声は「巡り巡ってここにいる」。映画は彼の幼少時から現在までを旅のように見せてくれる。ロンドン編では、数日前に「ミッドナイト・イン・パリ」を観たところなので、「ミッドナイト・イン・ロンドン」が作られたら、やっぱりスウィンギング・ロンドンに行くのかな、なんて思ったり。



「業界で生き残るための道は二つしかない、従うか、変えるか」


…というセリフが似合う「反逆児」だったロンドン時代の彼と、アメリカ進出後、妻と共にライフスタイルアドバイザーとして活躍する彼とは、まるで別人のようだ。本作を見ていると、ヴィダルの中に…あるいはどんな人の中にも、色々な要素があるのかなと思う。また幼い頃の体験から後年養子をとったり、修行中に発音や話し方を学んだ経験を活かしてテレビ番組のホストをつとめたりというエピソードの数々から、何かが何かに繋がる、ということが感じられて面白い。
作中には「現在」のヴィダルが、あちこち出向いたり体を動かしたりしている姿が多く見られる。冒頭、インタビューに答える姿にやけに体が柔らかいなと思っていたら、ストレッチやピラティスを欠かさないそうで、ビバリーヒルズの自宅のプールで体操を披露したり、サッカーが好きとのことで競技場でボールを蹴ってみたり。そうした映像により「現役」感が強調されている。


私がヴィダルサスーン製品を使ったことがない理由の一つは、パッケージに惹かれないから。本作の中で見たら印象が変わるかと思いきや、「パッケージにもこだわった」というセリフだけであっさり流されたので、少々がっかりした。
他に残念だったのは、彼の人となりと功績を描き出すことに重きが置かれているためか、その「技術」についてはほとんど触れられなかったこと。髪を切るということについて、もっと「具体的」な映像を見たかった。
「美容界のビートルズだった」「今で言えばipodみたいなもの」というように、他の有名な固有名詞に例えた表現が多いのも印象的。ヴィダルの功績は「当たり前」になってしまい、私も含めて現在の一般人は彼、あるいは「美容師」をそれほど重要視していない…という認識によるのかな。作中何度か「以前の女性は一週間ごとに美容院に行っていた」というナレーションと共に当時の映像が挿入されるけど、どうも「ヴィダル以前」と「ヴィダル以降」の衝撃が伝わってこない。「変化」の大きさと、後年に名が残るレベルとは違うということか。


ローズマリーの赤ちゃん」のミア・ファローの髪を手掛けることになる切っ掛けが「反撥」だとは知らなかった。用意されたのはボクシング・リング、取り囲むマスコミに向かって政治スピーチを始めるミア。ヴィダルいわく「狂乱のハリウッドだね」。


ラストは「現在」の彼の講演風景で締めくくられる。朗々たる語りは場面の一部ではなく本作のナレーションとなっている。武蔵野館で観たせいか、「裏切りのサーカス」のサイモン・マクバーニーの声を思い出した。