フィクサー


前半は原題「マイケル・クライトン」とその周囲の人々について、後半は…ああいうカタルシスが得られる映画だと思っていなかった。どちらも面白かった。



ニューヨーク最大の法律事務所に勤めるマイケル(ジョージ・クルーニー)は、フィクサー=スキャンダルのもみ消し屋。長年薬害訴訟を手掛けてきた同僚アーサー(トム・ウィルキンソン)が和解を目前に寝返ったため後始末に取り掛かるが、依頼主の企業は裏工作に出る。


冒頭、離婚しているマイケルは、息子を車で小学校に送り届ける。息子は大好きな本の話をするが…「どうせパパは読まないんでしょ?」。私が彼の子どもなら一緒にいてもつまらないだろうなあ、でも親に対してつまらないも何もないか、もし男女としておつきあいしてたらどうだろう、やっぱりつまらないなあ、などと考えていた。
(ちなみに何もかも大仰なジョージ・クルーニーに対し、息子の演技はとても自然で、車の中の何でもない顔などすごく良かった)
映画の前半、マイケルは常に「社会人」である。出社してすかさず携帯電話の充電をするシーンが印象的だった。事務所には電話もあるが、顧客とのやりとりはほとんど携帯電話で行われる。社用なのかもしれないけど、「私」がないことを感じる。
一方同僚のアーサーは巨額の訴訟を手掛け6年が経ち、もう「社会人」でいられなくなった。どれだけの時間を費やしたか計算し、原告側の、何でもないもっさりした娘に「純粋だ」と入れ込み付きまとう。彼女の側も現状に不満を抱え、しかし無学で自分に自信もなく、こういう二人が愛情どうこうでなくくっついてしまうことってありそうだよなあ、と何ともいえない気持ちになった。


農薬会社の法務責任者カレン(ティルダ・スウィントン)が、衣服を身につけるシーンが何度も挿入される。彼女はそうしながら、今日なすべきことを自身に刷り込み、外へ出てゆく。下着姿で鏡をのぞきこみながらセリフの練習をする。最後の「舞台」に出る前には、ベッドの上にストッキングを出して吟味し、スーツ姿の自分を全身鏡で満遍なく見る。社会において自分がどう映るかチェックする。
下着姿の彼女の後姿は、脇腹に結構なたるみがある。でもスーツを着ると目立たない。その程度の贅肉など社会人にとってはどうでもいいことだ。ちなみに私は「かっこいい男性にスーツは似合うが、スーツの似合う男性がかっこいいわけではない」というのを信条にしている(笑)自分が求めているのは社会人じゃないから。
ともかく、ティルダ・スウィントンの顔はやはり素晴らしかった。


マイケルとアーサーとのやりとり
「おれの話を聞けよ」
「聞いてるよ」
しかしマイケルの言う「自分の話を聞く」とは、自分の提案を受け入れること、つまり(ラストで彼がカレンに言うように)「交渉でなく要求」。解決のために提案を実現にこぎつけることが目的で、意思を述べているわけではない。
シドニー・ポラック演じる上司の話し方も同様で、マイケルに向かい「こいつ(第三者)は馬鹿だが、お前に謝った。それでいいだろ?」。仕事でなければ「あなたの決めることではありません」と言いたいところだ。


フィクサー」として事務所ではかけがえのない存在である(と上司に言われる)マイケルが、「ロックスターのように」店を持ちたく思い(「ハリウッドスターのように」なら面白かったのに・笑)、実行するが、経営に失敗しているという描写が面白い。彼にそういう才能はないのだ。
マイケルは「老後のたくわえ」を心配し、その弟は、警官としての身分が彼のせいで危うくなると「年金がふいになる!」と怒鳴る。金は必要だが、人はそれ以外に何を求めるものだろう。


マイケルは、昼間はニューヨークの事務所にいたと思えば、夜は結構な田舎に出向いている。日本で言うなら都心から多摩地方に行くようなもの?アメリカの地理感覚がないのでいまいちよく分からない。
それから、とあるシーンで赤ん坊が泣くんだけど、これがものすごく癇に障って、うまいなあと思った(笑)
更にそれから、企業の工作人は、あのコピーの一部をどうやって入手したんだろう?