週末の記録



リーガロイヤルホテル東京にて、柳亭こみち真打昇進披露宴。楽しくてあっという間に終わってしまった。燕路師匠がスピーチで「(おそらく他の真打の披露目に比べて、の意で)芸人が少ないとお思いでしょうが、これはこみちのプライベートなパーティでして…」と言っていたけれど、三百何十人もの一般人がお祝いしたい気持ちで来てるってすごいなと思った。


(こみちさんと私は同い年で、丁度リーガが開業した頃から同じキャンパスに通っていたのです。知己があったわけじゃないけど。私とは比べ物にならない努力家だけど、変な言い方だけど、彼女にとってはそれが普通なんだと思う。ともあれ彼女のような人がいることが嬉しい)


師匠は始め、女だからと(落語は男のものだからやりにくいだろうと)悩んだけれど、おかみさんの「女だからという理由で好きなことが出来ないなんておかしい」の一言で弟子に取ることにしたんだそう(…という話をこみちさんがしようと思っていたのに、事前に話したら師匠の挨拶に取られてしまったんだって・笑)白鳥さんの手による「女目線の」新作をやるようになった切っ掛けも、間接的にだけど、初めてはっきり聞いた。客のやることといえば享受するだけだけども、例えば私は噺家が男でも女でも全然かまいやしないから、客が変わることによる変化もきっとあると思う。私達は変化の中にいる。

ダンケルク



映画は静まり返ったダンケルクの町に撒かれる、「YOU」がでかでかと書かれた降伏を促すビラ(本物を模している)に始まる。トミー(フィン・ホワイトヘッド)は何枚か掴んで軍服のズボンを下ろす…が銃声にまた上げる。彼は結局、用を足せたのだろうか?「尻を拭いてやろうとする」のが要点だとはいえ、全くもって用足し感の無い映画である。
撃ち方に向かってイギリス兵だ!と言うと相手は味方のフランス兵だが、トミー(観客)には彼が何を言っているのか分からない。戦争じゃ否応無しに外の言葉に触れなくちゃならず、無視するか理解するか支配するかに人となりが、国柄が出る。


冒頭の数分間でトミーが一人になるのに、ダンケルクの海岸に長い列を作っている兵士達も皆そうなのだ、彼らの陰に何倍もの死があるのだと想像できる。その後の一幕に「死のマスゲーム」という言葉が浮かび、そもそもマスゲームと死とは繋がりがあるんじゃないか、やらせたり見たりする楽しさは潜在する死に惹かれているんじゃないか、なんて考えた。
防波堤を爆撃されるシーンに、戦争って生き残っても狂うのが当たり前なんじゃないかと考えたくせに、ドーソン(マーク・ライランス)の船に助けられた英国兵(キリアン・マーフィー)が渡された紅茶のカップを払い除けるのになぜ?と一瞬怪訝に思ってしまった。反省しつつも、罪深いことに、キリアンがUボートに悩まされるなんて潜水艦もの、見たいと思う。


「普通」の映画ならドーソン氏のパートだけで一つの作品にするところを、三つの視点を重ねることで、一刻を争う二艘の出港や浸水の中で穴を開けようとする者と塞ごうとする者とのカットバック(とは言わないか、この場合)、三者が遂に海岸で交差するクライマックスなどが提供可能となり、「映画の楽しさ」が詰まった娯楽作になっている。
一番「燃える」のはやはり、海上のコリンズ(ジャック・ロウデン)が燃料切れ寸前のスピットファイアのファリア(トム・ハーディ)の名を呼び続けるところ。最後に至ってファリアのパートを、「一週間」「一日」「一時間」なんて比をはるかに超えて長くながーく描写するのも、ドラマチックに過ぎるけど面白かった。


私がノーランを苦手なのは、「ダークナイト」のジョーカーがいわゆる「囚人のジレンマ」を仕掛けるようなところ(しかもそれがクライマックスって、野暮にも程がある!)。この映画にもそうしたゲームに近い状況が何度か発生するが、ここでのそれらは、人為的にも程がある戦争の只中なのに変なことを言うようだけど、極めて「自然」に存在するので、見ていてうんざりしなかった。もしかしたらノーランには都合がよかったかもしれない。
ただ、ノーランの映画が好きになれない大きな理由の一つ、セリフの応酬のつまらなさは本作でも目立っていた。一言ずつの決めゼリフ、「何が見えますか」「故国だ」/「私達は知っている」などには確かに胸打たれたけど、やりとりが続くと聞いていられない。片方が死にゆく青年二人のやりとりなんて、ありゃあない。


チャーチルの演説が掲載されている新聞から目をあげたトミーの何とも言えない表情で映画が終わるのには、「インセプション」のコマの回転を思い出した。どうだか「分からない」ところで切れる。この映画をいつ見ようが「その時」の空気を込められるということだろうか。私としては、その前に置かれた、ジョージを「英雄」とする新聞記事の一件とこのラストシーンとは少々ちぐはぐに感じられた。