セザンヌと過ごした時間



オープニング、一瞬何だろうと思うとペンが紙を掻く音。ゾラ(ギョーム・カネ)がセザンヌ(ギョーム・ガリエンヌ)に手紙を認めていると分かるのはしばらく後だが、タイトル時のセザンヌの絵筆の音しかり、何かを描くとは元々は引っ掛かかりのある行為、抵抗なんだなとふと思う。


少年時代の彼らが屋敷に入ってドアが閉まるところで、これから二人だけの世界が始まるのだと思う。簡潔な場面の数々で回想パートをさばいていくこの映画からは、とてもめまぐるしい印象を受ける。それは文筆家と画家を映画で描くにあたって、それらの芸術には無いが映画は(今のところまだ)持っている、観客の時間の決定権を振り回しているとでもいうような、ささやかな主張に思われた。


セザンヌが愛人について「何時間も動かないからモデルとしては最高なんだけど、僕に錨をつける女じゃない」と言うのに死体みたいなものだなと思っていたら、後に彼女が「絵の中の私は私じゃない」と怒りを露わにする場面がある(これはゾラの「制作」と絡めた描写なのかもしれないけれど、私には陳腐な男のロマンに思われた。ちなみに監督は女性)。セザンヌがゾラの「制作」につき「一頁ごとに僕が死んでいく」と訴えるのは、何かが巡り巡っているようだ。


この映画は「制作」に不満を抱くセザンヌがゾラの別荘を訪れるのに始まるが、滞在の数日間のうちに…といっても回想シーンが幾度も挿入される映画においては終盤までの長い時を経て、だけども…二人の「仲」は回復の兆しを見せる。腐れ縁の夫婦の喧嘩の後のような笑いが現れる。しかし結局はゾラの作中一番の長台詞と「君に分かってもらえなかった」という涙に終わる。何かを願う涙ではなく、ただ悲しいというだけの涙。この場面はちょっと凄い。


事前に流れた「ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」の予告編で、アイリーン・グレイの「男しかいない場所って本当に嫌」とのセリフを聞いていたこともあってか、床のきしむ時代(これがまたやけに響いた、音が印象的な映画だ)のディナーの一幕、映画はセザンヌがいかにぼろぼろだったかを描いているんだけど、私は男しか名のない世界の嫌さを思った。

あしたは最高のはじまり



意外な場面に始まったかと思いきや、予告編から想像していたのと全然違う内容の奇妙な映画だった。この場合「予告編サギ」という言葉はしっくりこない、作中の人物もこの映画もよかれと思って嘘をつくんだから、予告編だってまあ、いいだろう(笑)


まずは子育てそのものを描く映画じゃない。予告編に連想した「スリーメン&ベビー」のかけらもなく、そういえばあれはフランス映画のリメイクだったけど、これはフランス映画ながらフランスっぽくもない(オリジナルはメキシコ映画だそう)。変なことを言うようだけど、私にはマジックの話に思われた。


この映画における、映画(正確には「連続ドラマ」)作りや学校教育の描写はかなり適当で、はっきり言ってどうでもよいものとして扱われている。それじゃあ人生は何かというと、愛する人との、あるいは愛の記憶との夢のような時間。そういう提示もありだと思う。サミュエル(オマール・シー)は「人生は遊園地じゃない」と諭されるが、いや、そうだっていいじゃないかという話だ。


冒頭、「出発前」のサミュエルは「船長」であり、パーティを催し女とセックスするが、全く体を動かさない。それが娘のグロリアを「助ける」(と言ってもその危機は彼のちょっとした過ちが発端なんだけども)時からずっと体を動かし続ける。彼が「スタントマン」になるというのが面白く、皆に感動され感謝されても「はい、それじゃあ主役に交代」と言われてしまうのが、娘を母親に取られそうになることの比喩のようだった。


出発前に空港で「メトロ」の発音を笑ったサミュエルが、ロンドンに着くと自分が「地下鉄」と言えず相手の言葉が分からない(がFuck!だけは分かる、そういうものだ・笑)。日本の小学校でもままあることだけど、ロンドンに8年暮らしても英語が話せず、子どもが学校や職場で通訳をしている。でもって結局英語が話せないまま終わる。大事なことはそうじゃないと言うのだ。