ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー




「お前、女に何か吹き込まれたのか?『sentiment』でも…」


TOHOシネマズ日劇のスクリーン1にて、公開初日に観賞。
これはとんだセンチメンタル・アドベンチャー!オープニング、大きなタイトルと小さなスターロードの対比に涙がこぼれてしまった。私の「感傷」のピークはそこだったけど(笑)


私にとっては悪い意味で適当な作りの映画で、今年のことだから、ギャレス・エドワーズの方が全然うまいな、などと思いながら見た。監視塔での場面で、ゾーイ・サルダナが「セリフを言う番」の時、彼女のバストアップになるのを見て、上手く言えないけど、自分にはダメだと思った。もっともああいう画はスター・ウォーズシリーズを踏襲しているとも言える(笑)
映画が始まると同時に「I'm not in love」が流れる。えっもう!と思っていたら程無く「母親の死」にぴったり(=ありがち)なBGMが流れるんだもの、早々と相殺されてしまようで勿体無い。作中流れる既成曲の殆どについて、そりゃあ歌詞は合ってるけどさあ、と思ってしまった。(作中人物が大事に聴いているという)「設定」に甘えてんじゃないよと。もっとも映画における既成曲となると、「自分にとっての曲の意味を変える」レベルを期待してしまうからハードルが高い(それは例えば「ブギーナイツ」であり、ニール・ジョーダンの映画である)


面白いなと思ったのは、「宇宙」にきっちりした序列があるわけではなく、「ただの」奴隷からノバの軍隊の面々まで、皆がそれぞれ生きているというのが「分かる」ってこと。誰でも「we」になれる可能性があるという感じがする。それから、冒頭「蛙を殺したやつ」とケンカをしていたピーターが「26年後」には小動物を蹴りまくってる、グルートも次第に殺傷能力を身につける、というように、暴力の肥大を否定していないってこと。
そして主演のクリス・プラットの愛嬌!彼が映っている場面はどれも素晴らしい。「マシンが止まらなくて…」の時の顔を待ち受けにしたい(あのマグショット?を用いた通信を受けるのがジョン・C・ライリーってのがいい・笑)体型も最高で、噴射後退のような技の際に下半身の重量感の活きること。ゾーイ・サルダナの美尻も何度か映ったけど、クリスの尻も、艦内の梯子をそれこそ一段抜かしで上るところなど見ものだった。

舞妓はレディ



TOHOシネマズ錦糸町にて公開二日目に観賞。「TOHOシネマズデイ」のためか満席だった。


見ながらふと、「客席の皆さんもご一緒に京言葉を練習しましょう!」という場面があってもいいな、そういう客席参加型の映画があってもいいなと思った。自分が応えるかはともかく(笑)だって、少なくとも見てる最中は、どんなもんか口に出してみたくなるから。
ミュージカルのパートはスクリーンで見るには随分ぬるく、携帯電話の画面くらいが丁度いいんじゃないかと思う。作中一番ぐっときたのは、富司純子が四畳半だかのタンスにもたれて座り、遠くに三味線の音、喋らない女の子に自分の初恋の話をするという場面(あくまでもその後の「ミュージカル」シーンじゃない)。ちなみに彼女の登場シーンがちょっと面白い。


ピグマリオンものの複雑さは全くもって排除されている。教授は賭けはするものの「言葉」の部分を受け持つだけで、ヒロインを「育てる」のは街ぐるみ。更に、これは映画の意図じゃなく私の思い込みに違いないけど、男達の瞳に光を入れることで、彼らだって芸妓になりたいのだと言わんばかりの、すなわち皆が同じ方向に向かう「熱」を感じさせることで、めんどくさい部分に目が行かないようになっている。
「舞妓」という題材については、「女」にしか出来ない職業の「現在」について、富司純子の口からさらりと述べられる。「(自分の時とは違い)『現在』の芸妓は自立した『女』である」…すなわち「お金を稼ぐことができる」だけでなく「好きな人と一緒になれる」と。それでも見世出しの席に料理を前に座っている先生の画は心に残った。「ゴキブリはん」だろうと男は「あちら側」なんだから。「女の世界」が「男の世界」に依るという大原則は変わらないから、自分はあちら側に座らない男性を選ぶ自由を持ち続けたいと思った。