秩父へ出掛けた際、いつもは芝桜まつりで買っている肉の味噌漬けを秩父神社の参道にある安田屋で購入。箱入りだと数日後から食べごろのところ、すぐ食べるならとバラで買うことができた。翌日にフライパンで焼いたのとグリルで炙ったのと両方出してもらったら、どちらも美味。
六本木ヒルズにオープンしているカフェ ド パリに出向いて並んでみる。ボンボンの生クリームが日本仕様で軽めなのとスリーブで隠れている下部が苺じゃなくスムージーなのが口に合わず、不味くないけれど食べ切れなかった。
映画は子ども二人が寝ている暗いうちから車で出勤するオリヴィエ(ロマン・デュリス)と、その子らと楽しそうに、傍からは円満に見える時間を過ごす妻、その間に彼が職場で人事担当者に同僚の解雇を取り消すよう掛け合っているのに始まる。失業率の高い現在のフランスで「嫌ならよそへ行け」と言い放たれるこの主人公は家庭を顧みないのではなく顧みることができなかったということなのかと見ていると、それだけではない、もう少し違う話だ。
冒頭のオリヴィエの嘆願は「上が決めたことだから」と取り合ってもらえず、暖房を付けてくれとの要望も無視される(その代わりにサンタ帽が配布されるというジョーク)。労働組合に属し仲間をかばう彼の行動は全く実を結ばず、同僚からは告げ口を疑われもする始末。組合仲間はあまりの報われなさに抜けてしまう。そんな余裕のない環境において、オリヴィエはどこにおいても「一人」できりきりしている。これはそんな彼が最も大切なところから、すなわち家庭から、「私たち」を始めようとするまでの話である。子も含めて「私たち」になることで苦境を乗り切り、それを職場にも広げようというのだ。
妻を失ったオリヴィエの家へ母親と妹がやって来ることで、夫婦とその子ども達という家族が繰り返されているというこの物語の形が浮かび上がってくる。彼の父親は子の成長を見ないまま早く亡くなったが、同様に家族と「語り合う」ことのなかった彼は、逃げたかったけれども我慢した彼の母とは違い自身を守って逃げのびた妻のおかげで否応なしにコミュニケーションを取る機会を得られたのだと言えよう。いったん失った子を再び得た朝に生まれ変わったオリヴィエは、カウンセラーの前で子の中心に腰を据え「皆」と口にする。皆が彼女を待っていると。「決めるのは彼女」とプロは返すが、「私たち」になった家族は前より強い。
オリヴィエが「私たち」をまず家族から始めるのは、そこは彼の力でどうとでもなるから、換言すれば「私たち」という意識を作り上げることができるのは大人の側だけで子には不可能だからだ。フランス映画といえば「太陽のめざめ」で一人の子のためにいかに多くの大人が心を砕いているかが描かれていたのが忘れられないものだけど、本作では特に学校など何の頼りにもならない。「気を付けて」との声かけが精一杯のようで余裕がない。教員のみならず大人は皆、自分に少し余裕があるなら周りの子どもに目をやった方がいい、そんなふうにも見た。
ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)の父で牧師のマーシャル(ラッセル・クロウ)の説教において、「この中で完璧じゃない人は?」と問われた母ナンシー(ニコール・キッドマン)含む皆は笑って手を挙げるが、息子の回想の冒頭に置かれたこの場面からは、「人は完璧じゃない」と言いながら世間はある範囲内のそれしか頑なに認めないのだということが悲しいばかりに伝わってくる。
この場面で宣言されているように、この映画において不寛容なのは告発の対象である矯正施設だけではないが、本作からは悪が存在するのは密室の中であり外の世界は善であるといった印象、誤解を恐れずに言えば呑気な印象を不思議と受ける(確かに悪は密室でこそ猛威をふるう、サイクス(ジョエル・エドガートン)の『(治療内容を)外で言うな!』の場面は作中最も異様に映る)。若者(だけではないが、消されようとしている人々)にまずは外へ出てみることを勧めるためとも受け取れる。
同様に若者を救うために外へ出ていくよう勧めていた「サタデーナイト・チャーチ」では、自身を否定された少年がいったん部屋に閉じこもるも思い立って外へ出て行く姿が印象的だったものだけど、本作のジャレットは自室に閉じこもる。これはあの時にはもう彼の中に揺るぎない信念があり、どこにいようと自由だからである。
この外部の軽やかさとでもいうものは、息子が息できるよう外とを繋いでいる空気穴のような、彼を支えやがては共闘相手ともなる母の存在ゆえかもしれない。ダイナーで紙を見せられた時の何これ、と可笑しいのをこらえているような表情、常に少し物事を面白がっているような、同時に優しさと冷静さとを伴った態度に私もほっとさせられる。それは彼女が立ち上がるまで、「長老たち」の足元で飼い慣らされていたのであるが。
「走る車の窓から手を出して自由を感じる」描写にはいいかげん食傷気味だが、本作では何度も繰り返されたそれが最後に母のいわば自虐ギャグとして機能する。子を解放してやることができたからこそ、ほら!(危なかったでしょ)と言えるというわけだ(ラストシーンまで引っ張るのはどうかと思うけれども)。「根拠がなくても危ない(かもしれない)と思うことを親は子にさせたくない」という母子のやりとりは、最後の父と息子の会話とは異なり信頼の上のステージでこそ成立するものだ。
この映画では女性がいわば風穴となっている。「あなたのご両親は間違っている、あなたはもう18歳なのだから選択の自由がある」と話す女性医師(チェリー・ジョーンズ)の「私は医学と信仰を手にしているが、これらのバランスを取るのは難しい/人は自分の望む情報しか欲しがらない」とは何とも強烈な言葉ではないか。思えばジャレッドがグザヴィエと出会う「神vs.科学」しかり、本作にはこの問題が何度か提示されている。それに真っ向から挑んでいないやつこそ憎むべき相手なのだ。
作中のローレル&ハーディがショーを締めくくる「楽しんでいただけましたか、僕たちは楽しかったです」とはとても良いセリフだが(授業の終わりにも言いたくなるような…と考えると、あれは実に、頑張って準備した時でないと出てこない言葉だ)、これは二人が「ラストステージ」においてその気持ちを真に確認するまでの物語である。スティーヴ・クーガンとジョン・C・ライリーの互いへの愛を控えめに表す演技が素晴らしい。
スタン(スティーヴ・クーガン)が楽屋で靴底を削る音に始まった映画は、彼とオリー(ジョン・C・ライリー)の正反対コンビの長回しの出勤風景を経て、プロデューサーのハル(ダニー・ヒューストン)いわく「お笑い西部劇」の撮影現場がカメラに吸い込まれ満席の劇場のスクリーンに変わる。今の私の目で見ると彼らのダンスに皆が「爆笑」しているのがぴんとこないが、「二人」であることが最大の強み、良さなのだと伝わってくる。ハーディのあの決め顔だってローレルあってなのだと。
スタンいわく「映画の中の僕らは有名人じゃない、そういう設定だ、頼れるのは互いだけ、それがいい」。幾度も挿入される観客の笑顔に、こんなにも人々を笑わせている二人が(ここでは当初の空席や新しい映画が撮れないなどの)辛酸を嘗めているのが奇妙に思われるが、見ているうち、あの笑顔こそステージの向こうとこちらに厳然たる違いがあるということを伝えているのだと分かってくる。だから「ローレル&『クック』」を笑顔で待ち望む人々の期待に応えなくたっていいのだ。
マネージャーのデルフォントがご丁寧にも「奥方たちのショーも最高でしょう」と口添えするが、確かにそれぞれの妻、ルシル(シャーリー・ヘンダーソン)とイーダ(ニナ・アリアンダ)も四人揃ってのディナーの場面からして「コンビ」として撮られている(見せる意思のないものであるが)。「妻同士」なんて所詮男の付き合いに左右される存在だよねと思ってしまうのが、オリーの「おれたちはハルが決めたコンビだ」というセリフによって、彼らも彼女らも「たまたま」の組み合わせであることに変わりないと考えられるところが面白かった(そういう意図のセリフではないが)。