ムーンライト



映画はフアン(マハーシャラ・アリ)に始まる。王冠を掲げた車から降りた彼が、配下の売人に声を掛けその母親を気遣い、目の前を走っていく子ども達に目を留める。後に彼が「俺はここに長いこといる」「ここはやばいところだ」と言う、カメラがぐるりと見まわすその辺りは、その時もそれからもやけに静かだ。
翌朝フアンに送ってもらうシャロンが窓から手を出して風を感じて遊ぶ姿に、もしかしたら車に乗るのが初めてかもしれないと思う。彼が受け継ぐ王冠は、フアンの信条、教えである。いわく「自分が地球の中心」「自分のことは自分で決める」。


廃墟の窓にはめられた板を破り入ってきたフアンの「ドアから出るぞ」にぐっときていたら、この映画は全編に渡り「ドア」がキーになっているのだった。一章はシャロンがフアンの「come」に着いて外に出るところ(は映さず)に始まり、フアンが売人だと知ったシャロンがピンクめいた部屋を出るのにドアを閉める音に終わる。二章では母ポーラ(ナオミ・ハリス)が家の鍵を持たずシャロンを頼る。
三章で、現在の仕事について「お前らしくない」「俺のことなんて知らないくせに」の後に「I don't know you?」と返されたシャロンは、ダイナーのドアを見るが出ていくのをやめる(というかケヴィンがその隙を与えない、そういうやつなのだ、彼は)。以降、ケヴィン(アンドレホランド)がダイナーのドアを閉めて出る時も、自宅の鍵を開けて入る時も、二人は一緒である。その様子はこの世界の中で、とても落ち着いて感じられる。


シャロンを廃墟からまずは食事に連れ出したフアンは、そこでも口を開かない彼を自宅に連れて帰り、今度はテレサジャネール・モネイ)の料理を振る舞う。そんなに食べられるものかと思うけど、そういうことではなく、シャロンは飢えており、フアンが彼にしてやることはまさに保護者のやれることの凝縮のようである。受け急いでいる者と、与え急いでいる者みたいにも見える。
その逆の仕打ちは、帰宅したフアンへの、ポーラの「男」の「何を見てるんだ」という恫喝に代表されている。成人したフアンが見る夢の中の母も「私を見るな」と怒鳴る。シャロンが「いつもうつむいている」のは、世界が彼にそうするよう求めてきたからだ。


ダイナーで注がれた酒を飲み干したシャロンの「飲めないから味わわない」に、会わない間に目の前の彼が何を「味わわずに飲み干してきたか」を悟ったケヴィンは、自分の料理を「ゆっくり味わえよ」と声を掛ける。
二章の高校での一件の翌日、シャロンは冷水に顔を突っ込んでから学校に出向き、(後のケヴィンいわくの)「レゲエ野郎」をぶちのめす。成人し売人になった彼が「冷水」をおそらく日常的に、儀式のように行っているのは、今の生活を、自分を麻痺させなければ「飲み干せない」からだろう。マッチョな世界で、誰よりもマッチョになって、もう自分を誰にも苛めさせないという決意を忘れないだめだろう。あの結末の後にはこの「儀式」はどうなるだろうと考えた。


映画はシャロンを抱くケヴィンの右手で終わる。思えばこの手がなんと色々してきたことか、いや、フアンを除けばこの手だけが、シャロンに直接触れ、色々してきたことか。性器をこすり(それを優しく砂で洗うあのカット!)、送り際に握手する。殴りもした(シャロンは出来るだけ倒れなかった)。仕事から共に帰ったケヴィンが石鹸で手を洗うのは、気持ちも新たにシャロンを受け入れる準備のようだった。